横澤史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

日本の混迷の遠因は 文明開化以降の西洋崇拝主義にある

先祖とつながってこそ、日本人。

単なる生物学的な「ヒト」から「日本人」へ昇華する一つの大きな鍵は「先祖とつながる事」にあると思います。

そもそも我々の命は、数百年前の先祖からの延長線上にあるのであって、全体から隔離された単なる「個人」として存在するのではない。

徳も不徳も親や先祖が成した行いは全て、子や孫・子孫に引き継がれます。

水は低きに流れます。

親の因果は、子に巡ります。

人生は、デタラメをやっても最後には帳尻が合い、親の悪事の報いは何十年か経て忘れた頃に子や孫といった「一番痛い所」に返って来る。

その人を「一番痛めつける」形で返って来る。

私はそういうものだと思う。

からこそ我々は、悠久なる先祖を敬い、子や孫に不徳を残さない様にしなければいけない。

今の自分の行動は、数十年先の子孫達にダイレクトに直結するわけですから。

しかし、先祖をかえりみない人間は、未来の子孫の事も考えない。

「今の己個人」の事しか考えられないのです。

話を元に戻しますが、先祖崇拝こそ、日本精神の一丁目一番地にして「無限回帰」「永遠回帰」への道です。

自分という小生命が悠久なる大生命と結合するほどの幸福は無く、つまり本来、日本人にとって「家」とは、先祖とつながる場所でした。(そういったものが無ければ「家」が単なる寝泊まりだけのカプセルホテルになってしまう)

からこそ、日本を破壊する為に絶対必要なのが日本の家庭を壊す事であり、そうである以上こちら側は、敵の攻撃から「先祖との絆」を守らなければいけない。

しかし現代は、場合によっては「家」とか「先祖」を、何か「個人の自由」を阻害するものと見ている。

現代は、先祖から遊離した「個人」に価値を置く時代なので、「個人」よりも真っ先に「先祖崇拝」に価値を置くこの日本の伝統的な価値観は、何か「異教徒の邪悪な教え」に見えるかも知れない。

確かに今は「幼児性むき出しのバカ親」が多くそんな親は敬う必要はないし、先祖崇拝も他人が押し付ける事は出来ない

しかし我々は皆、先祖とのつながりにおいて生きているのです。

日本人に限らず、そうだと思う。

欧州の最古層とも言うべき「キリスト教以前」の2000年以上前の古代ゲルマン人ケルト人達もこの日本神道的な先祖崇拝の世界観の中で数千年間を生きており、人類の意識下にはこの「先祖崇拝」の伝統が、DNAに深く刻まれていると思います。

そもそも、どこの国であれその民族の躍動的な発展は、その民族の伝統的価値観に回帰する事でしか、なし得ないと思います。

そういう意味で私は、今の日本の混迷は明治の文明開化以降の西洋崇拝の成れの果て、だと思います。

混迷の遠因を深く掘り下げていくと、どうしてもこの岩盤にぶち当たる。

武士達から刀を奪った明治9年廃刀令は、日本弱体化の第一歩であり、刀と共に武士道精神も捨てられてしまったのです。

そして何より、明治以降の日本の高等教育というのは、西洋に追いつき追い越す為のものなので、やればやるほど、西洋崇拝主義に陥ってしまう。

今もそうですが、学校の勉強をやればやるほど「義理人情」「仁義」「忠義」「先祖崇拝」「家紋の誉れ」等といった、大和魂や武士道精神・日本的価値観がバカに見えて来るのです。

いわんや、武士道精神の権化である赤穂浪士乃木希典に見られる「切腹」等というのは、何か「未開のアジア人の野蛮な風習」にしか見えないのです。

文明開化以降の我が国のインテリ達は、自身のそのプライドの根拠を、西洋的知識の輸入者・代弁者という立ち位置に置いて来ました。

だからこそ、彼らインテリ達は、武士道や大和魂を否定する事に、全力を挙げて来た。

彼らは、切腹に象徴される大和魂や武士道精神を否定して破壊する事が、進歩の証だと勘違いして来たのです。

西洋的価値観の奴隷的信奉者である彼らインテリ達にしてみたら、先祖崇拝や切腹といった世界観は、憎悪の対象でしかない。

だからこそ、我々が国家を再興するには、天地を逆さまにする様に、今までの価値観を逆転させなければならない。

西洋崇拝の文明開化と、その延長にある鹿鳴館マインドや大正デモクラシーこそ悪の始まりという事こそ、銘記すべき事です。

そもそも、大正デモクラシーという耳障りのいい言葉は、伝統否定・武士道否定の大正共産主義の事。

現代日本の社会的な思潮はその大正デモクラシーのレールの延長線上にあるのですが、戦後、伝統的な日本精神を捨てて建物ばかり西洋的な立派なものを建てたけれども、得た物と引き換えに、同じだけのものを失ってもいるのです。

その結果、今の日本人は、身も心も西洋化してしまいました。
と言うより、上滑りと言いましょうか、西洋の上っ面を真似してるだけ、と言った方が適切かも知れません。

だからこそ、国運が行き詰まって国全体が動脈硬化を起こしている今こそ、私達の体内に流れる日本人の伝統的な価値観を、取り戻さなければならない。

その国家民族の伝統的な価値観に回帰する事によって、国家は発展するのです。
戦後日本では、日本文化と言えば歌舞伎とか能とか、そういった「無害なもの」は存在を許されました。

しかし、(どこの国もそうでしょうが)その国や民族の歴史そして伝統的価値観の根底には、「血がしたたっている」のです。

単刀直入に言いますと、戦後の日本において否定されて来たものの中に、「本当の日本」があるのです。

戦後の日本において否定され、インテリ達によって嫌悪されて来た(最期は自決した)白虎隊や乃木希典こそ日本人の鑑にして我らの英雄。

古来より、日本人にとって大事なのは「命そのもの」よりも「死に様」です。

命なんて、はかないもの。

だからこそ、「散り際」を美しくしてきたのが日本人。

だからこそ戦前の人達は、白虎隊や乃木希典の姿に、心を打たれて来たのだと思います。

そういった事を否定して来た戦後日本のインテリ達は、日本人である事を止めたのか!

と言いたくなります。

そして何より…日本人なら、坂本龍馬より白虎隊です。

坂本龍馬は、刀を捨てて拳銃を持ち始めました。

挙げ句、その拳銃も捨てて、次は万国公法の本を持ち歩きました。

これが、何か美談として伝わっています。戦後の日本社会では、こういった話がウケるのです。

しかし、刀は「武士の魂」です。それを捨てて西洋の拳銃を持ち歩いて、何が素晴らしいのでしょうか。

万国公法の本というのも、今で言うグローバルスタンダード本。

要は「だまし本」です。

坂本龍馬は国法を犯して外国から武器を輸入していた人物です。

今だって、そんな事をしたら重罪です。

そして彼が密貿易で仕入れた南北戦争の中古品で、日本人同士が殺し合うのです。

それをどう思っているのでしょうか。

ある旧陸軍の将校だった方が言っていました。

「戦前は、四民平等と言っても、士農工商の順番に人間が尊敬された。だから軍人が一番尊敬された。それが今は真逆になってしまった」

坂本龍馬の人気」も含めて、私はこれが全てを物語っていると思います。