横澤史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

戦後史の分岐点

私は1972年(昭和47年)生まれですので、それ以前は体感としてもわかりませんが…。

戦後史には「それ以前」と「それ以後」で断層が出来る幾つかの分岐点があり、例えばあさま山荘事件や日中国交回復といった出来事があり田中角栄が活躍したこの1972年こそは、まさに大きな分岐点の一つだったと思います。

例えば私が好きな東映任侠映画

ヤクザ映画とはいえ、高倉健任侠映画シリーズは、古き日本の形式美を描いた「チョンマゲをしない時代劇」と言われています。

10年間、絶大な人気を誇ったその昭和残俠伝シリーズは、1972年(昭和47年)12月で終了しました。

その後の東映は、翌1973年(昭和48年)の早くも1月から、己の欲望全開の現実のヤクザの汚さを「これでもか」「これでもか」と描いた『仁義なき戦い』を世に出し、作品はシリーズ化していずれも大ヒットを記録します。 

仁義なき戦い』は、

「現実の暴力団に任侠とか美学なんかない。あるのは己の欲望だけ」

というのを打ち出した映画です。

こういう所にも「1972年と、それ以後」の断層が見られます。

また、「時代の合わせ鏡」とも言うべきプロレス界もそうです。

昭和の時代のプロレスは、時代を背負い、時代の歩みと轍を一にしていたと思います。

そんなプロレス界は長い間、全日本プロレス新日本プロレスの2団体が競い合うという形で進捗していき、両団体の興行戦争はヘタなヤクザ映画よりもスリリングでした。

その両団体が設立されたのも、1972年(昭和47年)。

ちなみにこれは、プロレス業界では「72年体制」とも言われています。

そして、戦後史の次の断層は間違いなく、1984年(昭和59年)と翌1985年(昭和60年)にかけて、だと思います。

そもそも私は、

「昭和50年代こそ、日本らしさがまだ社会に残っていた最後の時代」

「昭和50年代こそ、日本文化防衛の最後の砦」

と、一貫して主張しています。

あの頃はまだ、日本でもアメリカでも「男らしさ・女らしさ」の保守的な美徳が残っていた。

1980年(昭和50年)に引退した山口百恵の保守的な歌と、当時の西側世界でのレーガン大統領や中曽根首相、サッチャー首相、コール首相といった保守系の政治家の隆盛は、無関係ではない。

話を戻しますが、やはり日本国内においては、昭和50年代のラストである昭和59年(1984年)と翌昭和60年(1985年)のこの一年の間には、明確な断層がありました。

昭和60年とは、戦後40年。

つまり戦前世代が社会の第一線から退き始め、戦後生まれとの世代交代の時期だったのです。

昭和60年になった時、世の中がガラリと変わったのを覚えています。

当時12歳だった私は「日本が間違えた方向に行っている。このままだと大変な事になる」と危惧しました。

その通りになりましたが…。

そしてその直後にバブル。

あれで「日本らしさ」が破壊されて、核家族化が進行し、戦前世代と若者達は断絶されていったと思います。