横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️一〇〇式司令部偵察機の機長

※岩崎高明先生のお住まいには、何と広田弘毅揮毫の額が飾ってありました。

岩崎高明 先生

1921年(大正10年)お生まれ。

1941年(昭和16年)に陸軍士官学校(55期)を卒業後、第4飛行師団 独立飛行第52中隊に所属。

その後、一○○式司令部偵察機の機長として1944年(昭和19年)10月の比島決戦•捷一号作戦に参加されます。

岩崎先生のお話

戦闘がなければ、機長なんかわりあいと暇で、コーヒーでも飲んでゆっくりしてますよ。そんなものです(笑)

それから、私が乗っていた百偵は速いんです。それは敵もわかっていて、百偵を見たら追いかけて来ないです。

追いつけないのがわかっているので。

私は一刻も早く最前線に出して欲しかったんですよ…。

「何で自分だけ後方なんだ」と不満でした。ところが上官が、なぜか私を最前線には出してくれなかったんですね…。

私が最後に連合艦隊の姿を見たのは、スリガオ海峡です。

艦隊が海峡を通過する時に、我々が上空を飛んで警護していたのです。

見送れと言うので見送ったのです。ええ、大艦隊は壮観でしたよ。

本土決戦?ええ、やるつもりでしたね。

「何で止めちゃうんだ」

と思いましたよ。

私は戦死してないのに、戦死公報が届いたのです。ですから母は私が戦死したと思っていた様で…

私が戦場から帰って来て、この家に黙って帰宅して台所に立ったら…。

母と目が合いました。次の瞬間…。

母が台所から一目散に私に駆け寄ってくれましたね。そこの台所です。

2016年7月 聞き取り

…光景が目に浮かぶ様でした。

岩崎先生のお家は、明治時代か江戸時代に建てられたのではないかという様な、藁葺き屋根の立派な家屋です

先祖と共に、伝統と共に生きて来られたのが、心底うらやましかったです。

つい最近まで、地元の警察署の剣道の指南役をなさっていたとの事で、2016年の取材時95歳の時点で背筋がピンと伸びていたのが印象的でした。

2018年(平成30年)ご逝去。

岩崎先生。

日本の為に戦って下さって、有難うございました。

心よりご冥福をお祈りいたします。

合掌。