横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

海軍大臣 米内光政の利敵・売国行為の数々 

☆「海軍善玉論」が真っ赤な嘘である事の証拠

 

昭和12年(1937年)7月の盧溝橋事件に端を発するシナ事変の際に、陸軍の戦線不拡大方針に逆らって戦線を大きく拡大したのは、海軍大臣 米内光政です。
 
主敵たるソ連に備える為に、中国大陸での戦線不拡大方針の陸軍とは真逆に、中国との戦線の拡大を訴える米内は、昭和12年(1937年)8月9日に上海の海軍陸戦隊二人が射殺された事を口実に、戦線拡大に乗り出します。
 
昭和7年の第一次上海事変で「上海の恐ろしさ」を知っているが故に消極的な陸軍に対し、米内は翌日の閣議で「上海への陸軍出兵」を要請したのです。
 
しかし二人の死亡だけで、全面戦争につながる「上海出兵」を訴えるだけでも常軌を逸しているのに、それに加えて米内は8月14日閣議で日中全面戦争論を展開し、何と「首都・南京占領」まで口にしました。
 
これが閣僚で最初の「南京占領」発言です。
米内は1ヵ月前の盧溝橋事件で生じた軍事衝突を、ここで一気に大きく拡大しようとしたのです。
 
もちろん外務大臣陸軍大臣も、これに反対しました。
しかし驚く事に米内は8月15日には「頑迷不戻な支那軍を鷹懲する」と、総理でもないのに支那への戦線布告とも取れるラジオ演説をします。 
 
そして米内は、議会において戦線拡大を主張しただけではなく、8月14日から16日にかけて敵飛行場への渡洋爆撃を独断で強行し、更に上海・蘇州・南昌などへの爆撃を、8月30日まで連日にわたって敢行しました。 
 
これによって米内は、陸軍の意思に背いて戦線が一気に南京まで拡大する道を開く事となります。 
 
つまり米内は、北支で起こった(当初は局地戦だった)軍事衝突をそこで収めようとせずに、戦線を強引に拡大した張本人なのです。
 
「海軍左派トリオ」の三人とも
薩長ではなく旧幕府方の末裔 
 
山本五十六・米内光政・井上成美の3人は、戦後、阿川弘之氏によって「親米派の平和主義者」的な称賛をされ続けてきた「海軍左派トリオ」です(※阿川氏は、戦時中の実戦経験はありません)。
 
しかしこの称賛は、国家を毀損する行為です。
そもそもこのトリオは、明治の軍神 東郷平八郎を嫌悪していました。
このトリオを礼賛している阿川弘之氏本人もまた、東郷平八郎や広瀬中佐といった「サムライ魂を持った明治時代の海軍軍人」を激しく嫌悪しています。
 
そもそも、三人ともそのルーツは、戊辰戦争での奥羽越列藩同盟にさかのぼります。
山本五十六は長岡。
米内光政は岩手県盛岡。
井上成美は宮城県仙台。
薩長が作った大日本帝国に、イチモツあったと言えるのではないでしょうか。
 
特に山本五十六は、薩長と戦った長岡藩の意識が強烈です。
父も祖父も戊辰戦争で殺されていますから。