実父の高野貞吉氏は
戊辰戦争において「賊軍 長岡藩」の
藩士として長岡で
薩長と戦い、更に
会津城に転戦してそこで負傷しました。
※貞吉の実の父(五十六の実の祖父)は、長岡城で戦死しています。
貞吉自身は、維新後はうら寂しく日陰者として余生を送ったそうです。
また、送らざるを得なかった。
この時代、旧幕府方である「旧賊軍」や「旧敵藩」出身者に対する社会的差別は、想像を絶するものであったと思います。
高野貞吉と高野五十六は、父子共に
薩長主導の「
大日本帝国」に恨みを持っていた事は、想像に難くない。
「二人の父親」が共に
実父の死後に高野五十六は「山本家」の養子になりました。
この「山本家」は代々、長岡藩の家老ですが、当主不在で家名しかなかったのです。
そしてこの「山本家」の当代たる山本帯刀も、
戊辰戦争の
会津城攻防戦で斬首されているのです。
大正4年の、「長岡藩 落城の日」に…
五十六は、家名しかないこの
家督を32歳の時の
大正4年(1915年)5月19日に相続しましたが、実はこの日は、「長岡城 落城の日」でありました。
その日を選んだわけです。
引きずっている五十六
また、五十六が妻に選んだ女性は、
会津藩士の三女です。
そして、こういう道を歩んできた五十六の思考回路は「
長州藩が作った明治政府」や「
長州藩が作った
日本陸軍」に対して、どう発動していたか。
容易に想像がつくというものです…。
また五十六は、幼少期に近所にいた米国人宣教師の影響を受けて、学生時代には聖書を読みふけっていたそうです。
武士の子としては異例でしょう。
また、今もある
長岡市の『
山本五十六記念館』には学生時代の五十六のノートが展示されており、五十六はそのノートの表紙にデカデカと、
アメリカのフランクリン大統領の名前を大書しています。
五十六は、幕府側の出身という出自による社会的差別に苦しむ中で、この頃すでに「移民の国
アメリカ」を、「出自を問わない理想の国」としてイメージを膨らませていたのかも知れません。
「幼少期に近所にいた米国人宣教師」の話を思い出しながら。