横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

旧軍人インタビュー ああ 海軍航空隊 ⭐️ 壮絶なゼロ戦パイロット ②

藤本速雄 先生

 

※①の続き

 

とにかく、何故だかワシは強運の塊なんじゃ。どういうわけだか…。
何があっても、「絶対に生きて帰る」と信じてたし。
終戦の日に、特攻命令が出たんじゃ。
東京湾上空3000メートルにて待機」という命令で、特攻機を護衛した後、自分達も突っ込む、と。
 
これで最期と思って、髪を切って爪を切って、「祖国よさらば」と思ってたら、離陸する寸前に、整備員が手旗をXにして、ストップがかかったのよ。
「昼から重大放送がある」と。 
あれがなかったら、飛び立ってたわ。
 
戦争に負けた時? 
一切悔いは無かった。ワシはやれるだけの事は全てやった。だから悔い無し。恨みも無し。
戦争が終わって、8月15日から、まるまる24時間寝たわ(笑)起きたら8月17日
 
そこで「これでもう終わり。一切悔い無し」いう事で、「さー。どうやって食べて行こうか。どうやって再建しようか」って考えてたよ(笑)。
 
米軍パイロットへの恨み?
全く無いよ。パイロット同士って、そういうもんじゃ。
米軍のパイロットがワシらをどう思ってるかって?
そりゃあ、ワシらが向こうに行った時は大歓迎よ。
 
1991年に、日米のパイロットが集まる航空ショーがあったんじゃよ。
そこに呼ばれて行ったら、そん時は市民が大勢来て、拍手で歓迎されたわ。
アメリカって言う国は臆病者をバカにするらしいけど、強い人間は国籍に関係なく尊敬されるんよ。
 
戦争中、撃墜されたアメリカ軍機のほとんどがゼロ戦に撃墜されたらしい。
だから「ゼロファイター」と言ったら、みんな尊敬するんよ。
原田(要)さんなんか、サイン攻めにあってたよ(笑)
戦争中の米パイロットとワシも話したが、「よく来たな!」っていう感じよ。
歓迎の証として、B29のコクピットにも座らせてもらったわ。
これも、日本人でワシが初めてらしい(笑)。
 
戦後はワシ、『海賊と呼ばれた男』の出光で働いたのよ。
出光で働いた日々。あれは大東亜戦争の継続じゃった。
独立系は出光だけなんよ。だから外資系の石油メジャーは、出光が憎いわけじゃ。
ありゃ、出光を本気で潰しに来た。
 
出光が店(ガソリンスタンド)を出すと、その横に出店して来たり、挟み撃ちで出店してきたり。
それに対してワシらも親父(出光佐三)の下で、「メジャーが何ぼのもんじゃ」言うて、あちこち走りまわって、夜討ち朝駆けで戦った。
 
いい思い出です。親父は、徹底した日本的な家族主義。ワシは93になる今も、出光の一員です。
 
出光の人間同士いうんは、どこかで会うても、「おお、出光か。ワシもじゃ」いう感じなんです(笑)
 
オスプレイ? みんなが言うほど危険じゃないわ。絶対そんなに危険じゃない。
あれに乗ってるのは、自衛官ではなく米兵ですよ。あれだけ兵隊の命を大事にするアメリカが、そんな危なっかしいのに自国の兵士を乗せるわけが無い。
 
お話したい事はこの10倍あるけど、時間やし…。
何? 色んな戦争経験者の話を聞いてるんですか。
へえ、頑張ってますね。
え?今度は大和の乗組員だった人に会いに行くんだ。
ふ~ん…。「もう撃たないで」って言っといて。
 
皆さんも、愛媛に来たら、是非寄って下さいね。
 
…そんな藤本先生ですが…。
2016年12月28日、95歳でお亡くなりになりました。
訃報に接し、私は天を仰いで慟哭し、地にひれ伏して嗚咽しました。
 
亡くなる数日前に、「みんなに会いたい」と言って下さった藤本先生、並びに「最期の別れに」というご遺族の方々の特別のお計らいで、私は仲間達10人ほどで、愛媛県の藤本先生のご邸宅にお邪魔させていただきました。
末期ガンで、別人のようにおやつれになり、もう寝たきりでほとんどお話しが出来ない状態でした。
 
最後に、一人一人ずつ全員と握手して「最期の別れ」をしましたが、私はお顔を拝見する事は出来ませんでした。
 
その翌日、10人のリーダーから電話をもらいました。
 
「藤本先生はもう、ベッドの上で動けないんですが…。我々が昨日お邪魔した事が本当にうれしかったらしく、有難う有難うと、電話口でずっと泣いてましたよ」
 
と…。  
8年後の今、これを書いていても、私も体が裂かれる思いです。
ただ、死は別れではありません。
藤本先生は私の中に生きています。
たまたま心臓の鼓動が止まっただけ。
死でさえも、私と藤本先生の仲を引き裂く事は出来ない。
藤本先生は亡くなってはいませんでした。