横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

旧軍人インタビュー ⭐️ 酷寒のシベリア抑留 ③

石井豊喜 先生のお話

 

※②の続き

 

Q.シベリアでは、どの様な作業をされましたか?
 
A.人跡未踏の原生林を伐採し、開拓しました。
マイナス30度までは、作業をやります。
マイナス40度では、ロシア人もストップです。
冷蔵庫を考えたらいいです。
あの状態を思って下さい。15~20分で参っちゃう。
マイナス35度でもやってましたが、マイナス35度が一日続く事は少ないです。
 
Q.寝る場所はどんな状態だったのですか?
 
A.下には何もひいてないから、着の身着のまま。
 
Q.要するに、木の廊下と思えばいいですか?
 
A.そうです。
 
Q.布団はどうでしたか?
 
A.枕も布団も無いです。
3~4年したら、一部に毛布は出たかな。 
板の上に着の身着のままです。
外で着てるオーバーをひいて、枕はちょっとした荷物を枕に、ね。
 
Q.入浴はどんな感じですか?
 
A.最初の2〜3ヶ月は無かったです。
後は、1ヶ月に1日ですね。
寒い所ではね、汗があまり出ないでしょう。
顔を洗うのはね、雪で洗いました。
ただ、栄養が無いから病気にかかりやすいんです。
 
…インタビューはまだまだ続くのですが、一応ここで終わらせていただきます。
特に私が気になったのが、以下の部分です。
 
仲間を売った者、
そういうのを早く返すと宣伝したんです。
すると日本人はね…。
正直です。止むをえないけど、言うなりにならざるを得ないですよ。
 
この辺りの指摘になると、やはり石井先生の歯切れは悪かったですが、何をおっしゃりたいかはわかります。
日本人の会話は1から10まで相手が話さなくても、1を聞いて10を深読みしなければいけない。
 
どうしたら早く返してもらえるのか…。
ここから先の答えは、皆様でお考えになっていただきたいです。
 
ちなみに先生は戦後、昭和31年に技官として防衛庁技術研究本部に入庁。
陸上自衛隊の六四式戦車。七二式戦車。そして九〇式戦車の開発に、中心メンバーとして携わります。エンジン部分の開発を担当されました。
 
「石井先生がいなければ、これらの戦車は完成しなかった」はちょっと言い過ぎですが、戦車の基幹となるエンジン部分が開発されなければ、そもそも戦車は走れません。
 
「最新の一〇戦車には携わっていない」との事でしたが、当然なから一〇戦車はそれまでの戦車の技術の蓄積の上に成り立ちます。
 
この点を見ても、国家・国防に関する石井先生の功績が伺い知れます。
 
※④に続く