横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

旧軍人インタビュー ⭐️ 酷寒のシベリア抑留 ⑥

 

 

西倉勝 先生

 

3年間のシベリア抑留  

 

大正14年1924年)生まれ

新潟県西山村から、昭和20年(1945年)1月15日に、新発田連隊に入営。
二週間足らずで、北朝鮮 会寧部隊に入ります。
 
同年6月に関東軍編入され、朝鮮ソ満の国境地帯で陣地構築。
その後、同年8月18日ソ連軍に武装解除
 
10月8日にコムソモリスク収容所に到着し、昭和23年(1948年)7月まで約三年間、抑留されます。
 
西倉勝 先生のお話し
2023年 99歳時のインタビュー
 
着いてから10ヶ月の間に、極寒さと飢えで25%の人間が亡くなりました。
高齢者や体の弱い人間から亡くなっていくんです。
 
寝ながらみんなと、田舎の事を話したり、帰りたいと励ましあって、お正月が来ると「今年もダメか」と話していましたね。
ソ連から思想教育をされましたが、私はそんなものハネつけました(笑)
 
死んだ戦友の遺体を穴に埋めるのですが、夜になると狼があさっていくんです…。
 
Q.抑留というのは、いつ帰れるかわからないわけですよね? 
明日かあさってか1ヶ月後か10年後か…。
「いつまで頑張れば帰れる」という期限が無いのは、精神的にキツイと思うんです。
昔の人だから、生きて帰れたんです。
体力も精神力も全然違いますし。
マイナス25度なんて、私なら一日でアウトです(笑)
いつ帰れるかわからないダモイ(帰国)まで、先生を支えた原動力は何ですか?
 
A.死んでたまるか、という気持ちです。
「祖国の土を踏むまでは、白樺の肥やしになるまいぞ」が我々の合言葉です。
祖母も毎日、鎮守様に無事のお祈りをしていてくれたんです。
 
Q.舞鶴港に着いて帰国を果した時は、どんなお気持ちでしたか?
 
A.そりゃあ、感無量です。言葉で言えないです。
舞鶴港に着いて浴槽の風呂に入って、日本食のお刺身を食べたのですが…。
抑留時代を思うと、今はお殿様です(笑)。
 
…西倉先生もそうでしたが、何人かのシベリア抑留経験の方達とお話させていただくと「神仏のお陰」とおっしゃる方が多かったです。
最新の資料では、「105万人抑留、50万人前後が亡くなった」と言われる、地獄のシベリア抑留…。
 
「生きて帰れたのは神仏のご加護」
「今日があるのも神仏のお陰」
 
この一言一言が、重く胸に刺さりました。 
西倉先生のインタビュー動画↓