横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

旧軍人インタビュー ⭐️ 酷寒のシベリア抑留 ⑦

中田康清 先生
 
中田先生は、黒竜江省 牡丹江の東寧で幹部候補生となり、そこからハルピン陸軍兵器学校を経て、関東軍に配属となります。
 
甲種幹部候補生(将校になる教育隊)は主としてハルピンにおり、中田先生はハルピンの13998部隊にて終戦
牡丹江の収容所に入れられました。
 
そしてその牡丹江からソ連バム鉄道建設部隊の一員として、バイカル湖を経てタイシェットの第40ラーゲリへ…。
 
マイナス30℃から40℃の中、森林を伐採して運ぶという作業に昼夜兼行で従事されました。
これは、第二シベリア鉄道を作る為の土木工事。
そこで約4年間過ごされます。
ソ連軍兵士をあざむく為、最後の一年は「精神に異常をきたしたふり」をしたそうです。
 
中田清康 先生のお話
2014年 91歳時のインタビュー
 
兵隊は相当死にました。
材木の下敷きになったり、栄養失調で死んだり…。地獄です。ペコペコのお腹で仕事をしていました。
 
電車が脱線するだけで、夜中でも何でも起こされました。何時とか、関係ないです。
収容所は建物ではなく、テントです。
ハルピン・牡丹江以外はテントです。
1ヵ月、野宿やゴロ寝で過ごした事もあります。
 
テントで二人で抱き合って寝ていました。
真ん中にドラム缶を置いて薪を焚いて5~6人で寝てました。
 
風邪ひいても、あまりひどくなったら病院はありました。
お米は月に一度…。あの時を想えば、今は極楽です。
ウクライナの女の将校が、私達に良くしてくれましてね。
パンをくれながら、私達に詫びてました…。
人間は人間です。人としては一緒。
感謝すべきロシア人です。
その女性、タマラーという名前でした。
たまらん…(笑)。
 
(昭和23年に)帰国した時の気持ちですか?
それはうれしかったです。船に乗った時からうれしかったです、
 
抑留期間中の、関東軍としての誇りですか?
もちろんです!
今あるのも、全て神仏のご加護です。
日本人として、本当に有難い。先祖の魂に生かされています。
若い人達へのメッセージ…祖国を愛して下さい。
 
…中田先生のお話をお聞きして強く感じさせられたのは「日本人としての誇り」です。
日本軍人としての強烈な誇り。
このアイデンティティが、地獄のシベリアで中田先生の心を支えていたのだと痛感しました。
 
そんな中田先生ですが…。
2015年、終戦70年目の節目の年にお亡くなりになりました。
享年92歳。安らかにお眠り下さい。
合掌
↓ 中田清康 先生のインタビュー動画

https://youtu.be/S8dqyqSEvxY?si=UkdvaurfoC4Dklb_