横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

旧軍人インタビュー 特攻隊の生き残り ⭐️ 人間爆弾「桜花」 ①

個人的な話になりますが、私は桜花特攻隊の神雷部隊指揮官の野中五郎 少佐(死後、大佐)に関心がありました。

基地に「野中一家」の看板を掲げ、ヤクザ口調で挨拶する任侠気質な指揮官…。
これだけでも魅力的なのに、もうひとつ私の心が動かされたのが…。
 
以下の話の後半部分は、事実確認はしていません。
あくまで仄聞という事をご理解下さい。
 
…野中五郎 少佐は特攻出撃の1ヵ月前に、妻子が留守を守るご自分のお家に一度帰ります。
最後の帰宅です。
そして再び帰隊するその朝、野中少佐はお腹に2人目の子供を宿している奥様の力子さんに「これが最後」と伝え「踊ろう」と言って手を取って「生涯最後のダンス」に誘います。
 
…ここまではネットにも出ています。
ここから先が仄聞のお話です。
 
そしてお二人は、積もった雪の上で「生涯最後のダンス」を踊りますが、野中少佐の出発後に奥様が地面を見てみると、雪の上には、躍った後の綺麗なリングが幾つも出来ていた------。
 
「野中少佐の任侠気質の裏には、そんなロマンチックな一面があったのか…」
 
私はこの話を聞いて、胸を打たれました。
 
この話に感動した私は、野中少佐が飛行長を務めた第721海軍航空隊(神雷部隊)の足跡を訪ねる意味で、茨城県・神之池の基地跡に行き、その近所にお住まいのご年配の方に当時の神雷部隊や桜花の話、野中少佐の逸話など当時の様子をお聞きしました。
 
第721海軍航空隊。通称・神雷部隊。
この部隊に所属した桜花搭乗員の方が、愛媛県にご存命です。
2015年と2016年にお会いさせていただきました。
 
佐伯正明 先生
 
昭和16年(1941年)5月。
少年時代から海軍に憧れていた佐伯先生は、海軍・佐世保海兵団へ入団。
予科練卒業後、茨城の北浦海軍航空隊へ赴任し、第721航空隊に所属となります。
 
佐伯先生は昭和19年夏、九州の天草海軍航空隊で飛練の練習生相手に、水上機の操縦を教える教官をしていました。
 
(月刊『丸』に佐伯先生の手記が掲載されたので、抜粋)
 
運命の神はこの地においてやがて『桜花』との出会いを私にもたらした。
隊長の前に立つと、隊長がニタッとして、
「いいか、この事は他の者に言わぬと誓え!」
いきなりこう言った。何だろうと不審がっていると、立て続けに、
「今から言う事を人にしゃべるな!それを誓え」
「はい、誓います!」
「よし、それでは…」
隊長は、ゴクリとつばを飲み込んでから口を切った。
「今度日本海軍では、敵の戦艦・空母を確実に撃沈する物を作った。
その乗員、いわば勇士だな。
それを極秘で募集している。
それら応ずるか?どうだ?今、ここで決めろとは言わない。三日間待つ。…しかし、人と相談するな」
 
ここまで言った時、稲妻のようにキラリと私の心にひらめいたものがあった。
そうだ、体当たり攻撃だ!
 
私はしばしの沈黙のあと、思わず叫んでいた。
「はい、行きます!」
「行くか?」
「はい!」
 (月刊『丸』より)
 
……その後、佐伯先生達は昭和19年(1944年)11月、茨城県・神之池基地にある第721航空隊(海軍神雷部隊)に転勤。
そこでは『桜花』を秘密兵器番号として『K1』と呼んでいました。
 
…私たちが、それら(K1)を一国も早く見たいと思ったのも無理はない。
しかもこれがいまや、全海軍あげて活躍を期待されている特攻機だということであれば、なおさらである。(月刊『丸』より)
 

※②に続く