明治以降の高等教育では「近代社会は進歩的」と教えていますが、そもそも近代社会というのは西洋の近代思想が具現化したものであり、その思想は決して「人類普遍の真理」ではありません。
西洋には「神」という絶対者がいて、人々が何百年にわたりその絶対者と長く葛藤してきた結果、生まれたのが近代西洋です。
「神」という絶対者がいたから、西洋では近代社会が成立したのです。
ですから、そういった土壌が無い日本に「近代社会」や西洋的な「近代思想」の上っ面だけ真似して直輸入しても、日本社会にはそのまま適合出来ない部分が多々あります。
西洋的な理論の詰め込みに偏重すると、直観力や洞察力が乏しくなる。
半面の真理を、全面の真理・普遍の真理などと履き違えてはいけません。
しかし、それら西洋的な近代思想の司祭が、文明開化以降の今日までの我が国の大学であり、その西洋の価値観をお化粧的に上塗りしたのが我が国のインテリです。
しかし彼らの思想は、日本の歴史伝統や土俗性に根ざしていないのです。
ですから私は、「外来の借り物の知識で先進的な自分をアピールする」のを止めろと、言いたいです。
※唯物思想と言えば、「下部は上部を規定する」というマルクスの思想が有名です。
下部である産業構造や社会構造等が、その上部に乗っている人間の意識を決めるという思想ですが、その逆の上部構造の反作用も説かれています。
「産業構造や社会構造を変えるのではなく、まず先に人間の意識を変える事で、後からそれらの構造が変わる」
というこの考えは、日本主義者の出光佐三も説いています。
私もこれに同感です。
社会の仕組みや制度を変えるよりも、「日本人の意識や心を変える事」の方が先だと思います。
これを変えなければ、いくら仕組みや制度や社会構造をいじくってもダメであり、それは単なる唯物論的な発想です。
物質的にどんなに栄えていても、
それを支える精神性が無いと単なる物崇拝であり、
人間が物の奴隷になる事を意味する
「物」より「精神」が先
人間は精神的な存在ですから、絶え間なく高尚な精神性を求めていかなければいけない。
しかし現在は、政治も経済も教育も、「物の分配論」が主眼になっている。
あらゆる分野に唯物思想が浸透している証左です。
現在の物質文明は
「伝統否定」「過去否定」の上に成り立つ
2024年に出来た携帯電話は、2005年の携帯電話よりも進歩しています。
しかし、2030年の携帯電話から見たら、2024年の携帯電話はかなり旧式です。
これが、現代の物質文明が「過去否定」の上に成り立っている証拠です。
そこでは古き伝統より、新しい物こそ価値がある。
まさに悪魔的な唯物共産思想です。
もう一つ例を挙げます。
地方は知りませんが、よく東京では戦前からの歴史的建築物が「老朽化による耐震性の問題」という理由で全壊されて、新しく立て替えられています。
それは口実で、単に利便性を求めての事だと思います。