戦後の日本は、戦没者への「鎮魂」が済んでいない ☆ 横沢史穂

明治生まれの祖父が、陸軍の傷痍軍人でした。百万人の陸軍将兵が敵と戦う前に餓死・戦病死させられたあの戦争。その責任がある山本五十六達の敗戦責任を明確にする事こそ、全戦没者への「鎮魂」ですが、戦後日本は「鎮魂」が済んでいない。更に現代の「毒親」も追及します。

斉藤由貴さんの『卒業』こそ、まさに現代の古今和歌集 ②

音楽の教科書に載せるべき

大和撫子マインドの鑑

 

 いくら賞賛しても賞賛し足りない

 

 何より『卒業』では歌詞が一篇の物語になっており、曲全体でロマネスクの様な「芸術的絵画」へ昇華した感じがします。

 

 のみならず『卒業』は、別れの地点、人生の分岐点に立つ事で、諸行無常の理と無常感をも表しており、この辺も古今和歌集と通底しています。

 

 そもそもこの『卒業』は、しょっぱなから歌詞が五七調です(「♪ せいふくの むねのボタンを」で、五七調)。

 

 

「愛を直接 表現しない奥ゆかしさ」こそ、

日本的美意識を表す

古今和歌集の真骨頂

 

 

 「古今和歌集 恋歌」では、ハッキリと具体的に口に出していなくても、溢れてくる思いに読み手が美意識を感じ取る事が求められます。

 

 高名な画家が、数本の曲線で躍動する動物を描くのと一緒で、具体的な描写をしないで、ふんわりとしたイメージや映像美を沸かせるのが、和歌の技法。

 つまり、心の映写機に古人のロマンを写し出す。

 肉体よりも、心の推移にフォーカスする。人の心の儚さを歌い上げる。

 和歌では、これが大事なのです。

  

 

目に見えるものの背後に、

目に見えないものを感取するのが、

和歌の真骨頂

 

和歌の中には、

日本的なものが詰まっている

 

 現代は、「見える事」しかなかなか信じません。

 しかし、そもそも物事は、「見えない事」や「言葉に出せない事」にこそ、真実があります。

 だからこそ、自分の恋心を何に例えるかが、歌人の腕の見せ所。

 

 お互いの微妙な恋心を隠す、本心を隠す。別の比喩に例える、自分の愛情を何かの事物に託す…。

 

 まさに古今調の和歌こそが日本的美意識の本質であり、ここには日本的なものの本質が詰まっています。

 

 日本人の美意識は、流麗な歌詞で遠い幻の様な美しさを描き出すこの古今和歌集で確立されました。

 それが悠久なる宮廷千年の時を超え、『卒業』につながり、両者は根底で接吻している。

 

 (勅撰ではないけれども)『卒業』こそ、現代に蘇った古今和歌集

 それが私の持論です。