『サド侯爵夫人』より
モントルイユ「相手があれでは…」
ルネ「相手によって貞淑の値打ちは変わらないというのが、お母様のお訓えではなかったかしら」
モントルイユ「それはそうだが、物には程というものがある」
ルネ「良人の罪がその程を超えたのなら、私の貞淑も良人に従って、その程を超えなければなりません」
『わが友ヒットラー』より
「祖国の繁栄よりも高い理想はない」
戦後の頽廃は、すでに戦時中の銃後に兆していたのだ。
戦後のあのもろもろの価値の顛倒は、卑怯者の平和主義は、尻の穴よりも臭い民主主義は、祖国の敗北を喜ぶ者どもの陰謀は、共産主義どもの下劣なたくらみは、悉くその日に兆していたのだ。
…よく言われる事ですが、『サド侯爵夫人』で描かれる「女らしさ」は、『わが友ヒトラー』の「男らしさ」に照応します。
両者は、同じ本の中に収められている戯曲なので。
私はそこに、もうひとひねり入れたい。
女らしさの極限の『サド侯爵夫人』の奥に隠し味の様に男性らしさがあり、男らしさの極限の『わがともヒトラー』の奥に同じく(逆に)女性らしさがある。
私はその様に見ています。