小谷孝子さん
1939年(昭和14年)広島生まれ
小谷さんのお話
閃光(ピカ)は、目が開けられない程の光。3000度から4000度の熱です。
みんな、その後の爆風(ドン)で亡くなったんです。
3歳の私の弟も、爆風で吹き飛ばされて行方が分からなくなりました。
広島市内は火の海で、皮膚と衣服が一緒に下がって、ツメの所で皮膚が止まっていた。
そんな、男だか女だかわからない人達の中から、母が弟を見つけて来ましたが、4日後に亡くなりました。
弟の最後の言葉が、母が水を一口飲ませた後の
「飛行機こわいね、お水おいしいね」でした。
火葬場なんか使えないので、母は涙を見せずに、自分で火葬にしました。
でも、最後に遺骨を瓶に詰める時は泣いていました。
当時、因島に原爆孤児達がいて、母はその子達の世話をしていました。
「どんな大変な時でも自分の事だけではなく、他人の事を思いやれる人になるのよ」
と、私は母に言われました。
そんな母も、被爆して鼻や歯茎から血を出していたのですが、5〜6年経って白血病だとわかったんです。
母は、それでも孤児達の世話をしていました。被爆した馬が暴れて走って来るのも母が止めて、水を飲ませて最期を看取っていました。
凄い母だったと思います。
そんな母も結局、私が小6の時に43歳で原爆症で亡くなり、私は両親を失いました。
姉からは「あなた、お母さんを忘れちゃダメよ」と、言われ続けます。
また私、しばらく飛行機がダメでした。
焼き魚も食べられなかったです。人を焼く匂いがして…。
また、トマトの湯むき(皮むき)。
熱戦で人の皮が剥けたのを思い出すから、広島の人はこれが出来ない人、多いんです。
私、被爆体験を話す時に言います。
「恨みからは何も生まれない。
恨みを言いに来たのではない」
と。
…悲しい体験を乗り越え、常に素敵な笑顔を絶やさない小谷さん。
亡きお母様から引き継いだその凄まじい婦徳に、私も涙を禁じ得ませんでした。
2023年7月17日 聞き取り