横澤史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…戦争経験者インタビュー ⭐️ 10歳で孤児として迎えた東京大空襲 凄まじいご経験…

 

武田昭 さん 1934年(昭和9年)生まれ 

戦時中は、ご両親、ご本人の3人暮らし。

家族3人で2歳頃に北海道から上京したらしいのですが、お母様はちょっと出かけて、二度と帰って来なかったそうです。

それで親戚の家をたらい回しにされますが、戦争中の1943年にお父様が亡くなり、武田さんは9歳で孤児になります。

お寺に預けられ、その後、戦争が激しくなると遺体がたくさん運ばれて来るので、火葬場で荼毘に付す手伝いをしていました。

3月10日の大空襲では炎の中、空襲のド真ん中である吾妻橋と浅草雷門の辺りで、ずっと一晩過ごされます。

10歳の孤児が…。

武田さんのお話 

私も吾妻橋から墨田川に飛び込もうと思いましたが、次々と飛び降りるから、押し潰されて窒息死した方が多いんです。川の中で動きが取れなくなる。

空襲の翌朝は快晴でした。墨田川は死体の山。

軍関係の人達が墨田川から遺体を引き上げるのですが、今は桜がズラッと咲いている川沿いに死体がうず高く積まれました。

戦中も戦後も学校にほとんど行けず、食べる物も常になく骨と皮だけになって、その上、シラミがたくさんたかって来ました。

戦後、18歳まで孤児院に入れられました。

ええ、孤児院を出てからヤクザになった人間、たくさんいますよ。

私はね…。

小さい頃から両親がいない、食べる物もない。それが当たり前でしたから、ツラいとか思わないんです。

当時はそれが普通ですから。

人権なんていう概念は、後で出て来たものだから。

2023年7月16日 聞き取り