横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️99歳の大隊長

篠田増雄 先生

1919年(大正8年)生まれ

陸軍中尉。第51師団 歩兵第66連隊 所属。1943年(昭和18年)1月、ラバウルに上陸。

そして同年5月、「ジャワの極楽、ビルマの地獄、生きて帰れぬニューギニア」と言われた東部ニューギニア戦線に向かいます。

そして大隊長として、ラエ、サラモアからサラワケット越え、アイタペと、ニューギニア戦史に必ず名前が出てくる戦場のド真ん中で戦い続ける事となります。

ナッソウ湾では、アメリカのルーズベルト大統領の息子が大隊長を務める海兵師団と激突。

結局、篠田先生は終戦まで戦い続けます。

篠田先生のお話

玉砕と言うと聞こえはいいが、実際はマラリヤによる病死。

戦傷しても薬も無く、自決用の手榴弾も無い。そのまま放置されて餓死。ひどいもんです。

一人、ワニに食べられて亡くなった兵隊がいました。

いなくなったと思って探したら、川のそばで片足が切断された遺体になってた。ワニに食べられたんですね…。

アイタペの戦いの頃になると、被弾した人なんか、もうすぐに自決してました。

武器も食料も医薬品も無いんですから。

軍隊というのは、上の人間には、部下を犠牲にして点数を上げようとするのがいるからね。

現地の土人は、本当によくしてくれました。自分達の食料も、こちらにたくさん運んでくれました。

日本が負けた事は現地の酋長も知っていて「ソーリー、ソーリー」と言ってね。

戦後、25年経って遺骨収集に行ったら、酋長と再会してね、大喜びしてくれましてね。

彼らからは人として大事な「誠意」を感じました。  

…篠田先生、戦後は歯科医院を開業し地域の歯科医師会の会長、ライオンズクラブの会長等を務め、軍人としての戦闘奉公ではなく形を変えて地域社会に大なる貢献を果たして来ました。

私がお会いしたのが2018年9月、増田先生は99歳でしたが、背筋が伸びて意気軒昂。

とても99歳には見えないほど、お若く見えました。