横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️帝国陸軍の誇り①

 

小埜隆 先生

陸軍士官学校出身(55期)の方で「大陸打通作戦」に参戦した第13師団 山砲兵第19連隊所属の陸軍大尉です。 


大正10年(1921年)お生まれ。神戸ご出身。幼児期から神戸港の軍艦を見て、軍隊に憧れていました。 
「夜、丘の上から見る神戸港の満艦飾の軍艦が、とても綺麗だった」

との事。 
 
小埜先生が所属した第13師団は、昭和13年(1938年)11月9日に第11軍に編入されて中国戦線での様々な作戦に参戦し、陛下の信任も厚かった武勇の誉れ高い精強師団です。

(余談ですが、1911年に日本で最初にスキーを伝授されたのが第13師団です)。 
 
小埜隆先生は陸士卒業後の昭和16年(1941年)年に中国大陸に出征され、各地で転戦します。

第13師団は「大陸打通作戦」第二段の湘桂作戦に参加して、幾多の武勲を立てる事になりますが、小埜隆先生も中隊長として参戦。

赫々たる戦果を挙げ、「殊勲甲」となります。

 

その中の一つとして、先生率いる部隊は何と山砲でP51を撃墜しますが、この時は敵機が空中を乱舞するに任せ、こちらからは一切反撃せずに当初はあえて沈黙していたそうです。

そうすると、相手(P51)も油断して更に調子に乗って低空飛行で機銃掃射をして来ます。 

それでもこちらは一切反撃しない。 
そうやってP51を、低空スレスレに引き付けて引き付けて引き付けておいて…。 
 
敵機の速度。風の向き。

そういった条件を全て考慮して…。

「今だ」と判断した瞬間に「撃てー!」と下令。 
隠れていた山砲が一斉に火を噴いて標的のP51は粉々になり、ついでに隣にいたP51も巻き添えとなり、墜落。 
以後、低空での機銃掃射は無くなったそうです。

終戦時は陸軍大尉だった小埜隆先生は元々理系に強く、その為に砲兵畑一筋に歩まれて、戦後は陸上自衛隊に入隊し、陸上幕僚監部付から第7師団第7特科連隊長として奉職。

 

「部下を徹底的に鍛えた」と小埜先生が言う通り、先生が連隊長を勤めていた時の第7特科連隊は、錬度が特に高かったそうです。 

その後、陸上自衛隊富士学校研究部第3課長となり、一佐(大佐相当)で退官。

戦後も、国防の第一線に立たれてきました。 
とにかく小埜先生は、「帝国軍人」と聞いて大半の方が思い浮かべるであろうイメージを凝縮したような方でした。 
 
そんな小埜先生ですが、終戦直前になって、本土決戦を指揮する部隊長(砲兵)として中国戦線から日本本土に呼び戻されます。

 

Q.本土決戦要因として呼び戻された時のお気持ちは?

A.叩きのめしてやる。それ以外ありません。 

※②に続く