横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️カウラ事件の生き残りの方が…

 

村上輝夫先生

1920年大正9年)生まれ。

陸軍 第17師団 歩兵第40連隊。陸軍一等兵

村上先生は、カウラ事件の生き残りの方です。

カウラ事件とは、1944年(昭和19年)8月、オーストラリアのカウラ捕虜収容所で1100人以上の日本兵が、突撃ラッパを合図に蜂起し、鉄条網からの突破を企てて234人が亡くなったという、史上最大規模の捕虜脱走事件です。

その生き残りの方…。

1942年(昭和17年)6月、鳥取で二度目の招集を受けた村上先生は、門司から釜山に渡り、中国の呉孫からトラック島を経てラバウルに上陸します。

もしかすると、当時ラバウルにいた私の祖父(陸軍一等兵。1982年死去)とすれ違った位はあったのではないかと、想像してしまいました。

その後、村上先生は、上陸して来た米軍を迎え撃ちますが、食料がなく蛇やトカゲはご馳走だった、とおっしゃってました。

その後、米軍に拘束されてカウラ収容所に移される事になり「天国の様な生活だった」らしいのですが、そこに収容されている日本軍人達には「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓が生きておりました。

そして「どうせ日本には帰れない」という事になり、死に場所を求める総突撃が行われました。

それがカウラ事件です。

村上先生曰く「死ぬ為に参加した」との事。

2019年8月 聞き取り