藤原重人 先生 1924年(大正13年)生まれ
1944年(昭和19年)9月 東部63部隊に現役兵として入営。
藤原先生のお話
翌1945年2月〜7月まで、九江から長沙、楽昌と3000キロを行軍して、戦友がたくさん死にました。
日本の兵隊は農民から徴発(略奪)しました。
中国の民家に強奪に入る時、何て言っていいかわからないから「こんにちは!」と言って入って行きました。
そのうち、どこに何があるか、だいたいわかるようになって、全部奪って行った。
家に入るとお婆さんや子供が命乞いしていて、シナ人に申し訳なかった。
クーリー(労務者)も徴発しました。
農夫をそのまま連れて来て、宿営地で監禁して、そのままクーリーにするんです。
完全に誘拐です。
そのうち農夫の家族がやって来て紙に書いて、
「返して欲しい」
「親が病気だから会わせて欲しい」
と言ってるわけですが、そのまま否応なしに連れてった。
後で家族が、お父さんいるんじゃないかと見に来るけど、もう出ちゃってる。
クーリーも、10日も軍に同行して行軍したら、もう帰れないんだよ。
苦しい行軍で、栄養失調で初年兵がバタバタ死んで行きました。
敵の弾に当たって死ぬんじゃないんだよ。
後ろから共産軍が追って来てるし、倒れた兵隊は水かけても起きなければ、呼吸してるだけならクリーク(運河)に投げて水葬にしました。
退却の時は、クーリーに本当に助けられた。
ただ、日本軍に協力したクーリーは後で酷い目にあわされたみたいです。
(日本が)負けても、我々は武器は渡さなかったです。
国民政府軍は、日本に武器を持っててもらって「何かあったら共産軍相手に頼むよ」という気だったんだと思います。
だから、安慶の捕虜収容所では三食もらいました。優遇されました。
こちらも、それを恩に感じて揚子江の堤防工事をしました。
向こうも感謝して「じゃあ早く帰れるように」という事でした。
私達は蒋介石の捕虜になったわけですが、八路軍の捕虜になったら、シベリアへ送らせてましたね。
(蒋介石に)頭が上がらないですね。
2019年12月 聞き取り