瀬戸山 定 先生
1926年(大正15年)生まれ。
陸軍少年飛行兵(14期生)
航空総軍 司令部通信班
陸軍伍長
1942年(昭和17年)4月、陸軍少年飛行兵を志願して東京陸軍航空学校に入学するも、通信への適性が高いという事で、通信兵となる。
瀬戸山先生のお話
昭和17年の正月はワクワクしてました。
「飛行機乗りになれる」と。
3月22日夕方、合格者にのみ送られる書類が来ました。来た時点で合格です。
同期は1523人、入った。
「訓練は、参ったするな。お前が参ってる時は敵も参ってるんだ。死んだらお化けになって突っ込め。足がなくなったら坂道転がってでも体当たりしろ」
と教わりました。
私を含め、みんな操縦希望です。
しかし、通信と言われてガッカリしました。
理由は「適正の結果、反射神経が高い」という事で「通信は、神様がおまえに与えてくれた天命だ」と言われました。
多分ごまかしだろうけど。
これが第一の挫折です。
17歳にして希望が無残に打ち砕かれたのです。
毎日、通信のトンツーの訓練と高周波の勉強てます。
受信は、そろばんで、願いましては… と一緒。飛行兵ではなく非行兵だ、と自嘲してました。
米軍への恨み、多かったです。
報道で「勝ってる」「勝ってる」と言うわりには、敵の戦闘機が増えてる。
しかも、最初は高度が高かったのに、段々と低く飛ぶ様になっていった。
「勝ってるって本当かなあ」と思いましたが、しかしそんな事言ったら大変ですからね。
通信だから、アメリカやイギリスの情報が入ってくるんです。
(昭和20年)7月13日から、外伝の傍受をしてました。 「日本国民を奴隷にしない」と言ってましたね。
チューリヒからモスクワへの電信の傍受をやりましたから、終戦二日前にポツダム宣言受諾の情報は入ってました。
戦争中の事は、話したくない事、いっぱいあります。
戦後は陸上自衛隊の通信関係の業務に携わりました。防衛庁技官です。
最後に…。
人様に悪い事をしたら、因果応報。自分に返って来ます。
私は部下に手を上げた事はありません。
ええ、今の時代がいいです。
2019年12月 聞き取り