横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー ⭐️ 中国の原野で喉が渇き…

依田安昌 先生 1924年大正13年

陸軍 衛生兵

独立混成第一旅団 独立歩兵第74大隊

北京の陸軍病院で、衛生兵としての研修を受けます。

1945年6月18日、戦闘開始。

この頃は真夏。

依田先生の部隊は400人程で城壁に囲まれている所を、数千人の敵(八路軍)に囲まれます。

残った36人が自決を覚悟する中、伝令という事で5名のみ脱出しますが、そのうちの2人が銃殺され、3名になります。

依田先生のお話

逃げる気力もないから「一緒に死のう」と、その3人で話したけど、死ぬにしても手榴弾1発しかない。

それに、死ぬ前に水を飲みたい。

前の日から誰も何も飲んでないんですが、中国の原野に水なんかないんです。

水がないから「3人で小便を飲んで死のう」と言いました。

しかし、ひと垂れしか出ない。

その出た尿も生ぬるい。渋くて渋くて…。  

そのうち、包囲してる八路軍が日本語で話しかけて来ました。

「日本軍の皆さん死んで、あなたがた3人だけだから死なないで。いま、水と飯を用意する」

と、ハッキリした日本語で言われたんです。

 30分後に水とご飯を持ってきてくれて「話し合いに行くから撃たないでくれ」と、こちらが言ったら、向こうがそっと来たんですが…こっちから撃ってしまった。  

相手は即死しないでうなってました。

そこで向こうも撃ってきたけど、威嚇射撃で、また話し合い。  

「死なないでくれ」と言って来て、結局、捕まりました。

その後に飲んだ水は美味しかったですね。

8月18日、19日に八路軍の兵士から終戦を知らされまして、「日本に帰る為に案内する」と言われて、9月1日から毎日移動です。

「ロシアの助けを借りて北海道から日本に帰る。元気で歩いて下さい」

と言われて歩き続け、モンゴルのゴビ砂漠を毎日10キロ歩いて、11月の10日頃にロシアの国境に来ました。

しかし結局、翌年の6月に復員するまで、内モンゴルで抑留されたのです。

2023年7月16日 聞き取り