横澤史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…戦争経験者インタビュー ⭐️ 満州の凄まじい生き地獄…

赤崎雅人 さん

1936年(昭和11年)生まれ

満州国 琿春 にて出生 

満州で写真館を営むお父様は、終戦間際の1945年5月に38歳で召集されました。

お母様。ご本人、弟さん、それと妹さんが3人いたそうですが…。

終戦直後の栄養不足で、4ヶ月間で収容所で3人の妹さん全員が亡くなりました…。

それぞれ、7歳、3歳、0歳…。

終戦直後の満州では、ソ連兵による強姦・殺戮に加えて、飢えと寒さと伝染病で冬を越せずに、終戦の翌年1946年の春までに約20万人の婦女子が亡くなり、満州の土となったのです。

赤崎さんの残された家族は、お母様、赤崎さん、弟さんの3人。

戦場に行ったお父様の安否は、依然としてわからず…。

7人家族が、2人だけに…

その後、赤崎さん一家は帰国が許されず、共産勢力下の旧満州の工場で働かされます。

赤崎さんも13歳から働かされますが、1950年にお母様が体調不良で寝たきりに…。  

「亡くなった子供達が夢に出る。お母さんを呼んでるわ。きっと寂しいのね」

と語るお母様。

翌1951年8月、祖国の土を踏む事なく、42歳の若さでお母様が逝去。

「葬式も出せず、そのまま土に埋めた」との事…。 

1953年3月、終戦から8年経って、16歳になった赤崎さんは12歳の弟さんを連れて、ようやく日本に帰国。

そして役場で、実はお父様が1946年に戦病死していた事を知らされます。

…いかがでしたでしょうか。

壮絶 としか言いようがありません。

これが満州国の実態です。

最近よく言われる「多民族共生社会」などというのは、満州国の失敗で明らかです。

かつて、国策で満州に送り出された多くの日本人…。

この満州国の最後における生き地獄を、海軍大臣の米内光政は「天佑だ」と大喜びしました。

かつて首相時代に、自分が大勢送り込んだクセに。

私は米内光政と、彼のこの発言を評価する戦後の文化人達を、絶対に許せない。

日本人の言葉ではない。

赤崎さん、8歳でお父様と生き別れ、9歳で3人の妹さんを喪い、14歳でお母様を喪い、弟さんと2人だけに…。

戦病死されたお父様は、今際の際に、残されたご家族の事を想われたはず…。

どんなお気持ちで亡くなったのでしょうか…。

2023年7月15日 聞き取り