横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️東京大空襲を経てシベリア抑留へ…

 

坂本邦男 先生 

1925年(大正14年)生まれ。

14歳で3月10日の東京大空襲を経験し、翌日に陸軍に召集。「仇をとる」と決意。

満州に渡り第27対空無線部隊に配属となる。1945年(昭和20年)8月28日、ソ連軍に降伏。シベリアに3年間抑留される。

坂本邦男 先生のお話

東京大空襲の時は)火の勢いが、凄いなんていうもんじゃない。火災のトンネルです。

翌日、川は水が見えない位、死体で埋まってまして、防火用水に浸ったまま白骨になった遺体があって、あの光景は忘れられないです。

お袋や妹も亡くなったと思って死体を探したけど、見つからず…。家の焼け跡の前でうずくまって泣いていたら、お袋と妹が帰って来て、抱き合って喜びました。

翌日、招集令状が来ましたが「仇をとる」と誓いました。

満州の第27対空無線隊に配属になり、終戦はそこで迎えました。

飛行場の前で上官が自決して、周りは「みんなで自決しよう」と盛り上がっていて、内心「困ったな」と思いました。

抑留は、2年間は森林の伐採作業でした。

食料が足りず、朝起きたら隣で死んでいたという事は多かったです。

狼に食べられるんです。
逆に、食べられるのは何でも食べました。

美味しかったのはハチの子です。ウジ虫みたいですがね。

「死んでなるものか」と、精神力で生き抜きました。

人間、「ダメだ」と思ったらダメですね。

私は、軍隊生活は3ヶ月。捕虜生活は3年。3ヶ月だから軍人恩給はないんです(笑)

昔は人生20年なんて言って、戦車に爆弾抱えて体当たりの訓練してましたが、生きてて良かったなぁ…と。

シベリアでは、同期25人のうち、13人が死亡か行方不明です。

死んじゃった人は無念だったでしょう…。無念の涙で死んだのは何万人、です。

大きな犠牲を払っての、今の平和です。

2019年12月 聞き取り