松嶋英雄 先生
1939年(昭和14年)語学を学ぶ為、15歳で満州に渡り、昼間は働き夜は夜間学校へ。
1945年(昭和20年)3月、関東軍 第5軍隷下第6754部隊に入隊。
お母様は「天皇陛下に命を捧げて来なさい」と送り出す。
戦後、シベリアに4年間抑留。
引き揚げ船から水平線の彼方に日本が見えた時「万歳!万歳!」の歓声が船内から上がる。
70歳で視力を失う。
松嶋英雄 先生のお話
戦争の話、全部話すと泣けて話せなくなる。
戦闘は一日だけです。 (1945年8月)13日、森の中に集まって一戦やるぞ、と。
銃は無いので、爆弾で体ごとぶつかる練習を6月からしてました。シャベルと手榴弾しかないんです。
突撃前はビール1本、ネギ1本で乾杯しました。
突撃の日、バリバリと激しい音がして、敵の弾で血煙が上がってました。
かなりの人が戦車に体当たりしました。
水飲むのも這っていったのですが、夕方になると敵が撤退しました。
私の馬が敵機の機銃掃射で腹わたを出して倒れたので、敵機に馬鹿野郎!と言ったら、聞こえたのか敵機が戻って来ました。
馬を抱えて悔しくて悔しくて、馬に謝って…。これが13日です。
15日、1発の音もしない。
17日になったら、戦車を先頭に攻めてきた。歩兵も随伴。
これにやられたら、どうにもならん!と思いましたが、敵は300メートル手前で止まって攻めて来ない。
兵隊が歌っていて、女の兵隊がダンスしてる。こちらは、100人に30丁の小銃しかなかった。
そうしたら、金モールを付けた関東軍の参謀が、将校を連れて白旗を上げていた。
「停戦協定が出来たから明日、武器弾薬を解除しろ」との命令ですが「おかしいな、停戦なのにこちらの武器解除なんて」と思いました。
その後に収容所に入れられて「あ、日本は負けたんだな」と思いました。
ソ連兵のあいつらは、時計も万年筆もないから、スーパーのセールみたいにみんな奪っていくんです。
食べるものがないので軍馬を一頭殺した食べたのですが、しかし、無二の戦友である軍馬を殺してまで、生き地獄と言うか…。
どこかの駅から連れて行かれて、日本に帰るのに北に行くのはおかしいと思うけど、まさか地獄への道とは思わなかったです。
着いた途端に、帰れないとわかりました。
森林伐採が作業のノルマなんですが、飯食ってないので出来ないんです。
しかし休んでるとロスケが来る。
ちなみに歯磨きは4年半やった事ないです。
食べるものがないので、ヘビやカエルを見つけて食べたり…。
生易しいもんじゃないですよ。戦争に負けるなんて。
人は、軍隊を作ると戦争したくなるんです。
抑留中に4.5メートルの足が倒れて下敷きになって神経切れて、潰されました。
だから足が悪いんです。
シベリアで、神仏はいませんでした。
ですから私は、神様にお願いしません。宗教は信じません。
「母に元気な姿を見せるんだ、絶対死なない」という気持ちで、頑張りました。
戦友を山野に置き去りにして70年以上…
「済まない」…
今も、どこかわからない山中に、あの凍てつくシベリアの凍土に、多くの戦友が寒さに震えながら眠っている。
今でも、特攻隊は国民の注目を浴びている。
しかしあの戦争は、特攻隊だけが注目を浴びていいものではない。
他にも沢山の将兵が、特攻隊以上に悲しい死に方をしている事を忘れてはならない。
シベリアで多くの戦友が、昨日、今日と、毎日死んでいった。お墓なんかありません。
10人くらい死んだら、穴を掘って酷寒の中にまとめて埋めるんです。
作業着は新しく支給されずに穴だらけなので、死んだ戦友達の衣服をもらうのです。
戦友達は全裸で埋められるのです。
そして生き残った戦友同士で「次は誰だ、自分か」と、言い合うのです。
これが地獄でなくて何でしょうか。
今でも戦友に、済まない、済まないと、胸が締め付けられます。自分の無力が悔しいです。
2019年12月 聞き取り