横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️3年間のシベリア抑留

最近の研究では「105万人抑留、約50万人死亡」と言われる、地獄のシベリア抑留

西倉勝 先生

1925年(大正14年)お生まれ

1945年(昭和20年)6月、北朝鮮•会寧の部隊から関東軍編入され、ソ満国境地帯で陣地構築に従事。

その後、同年8月18日に武装解除

10月8日にコムソモリスク収容所に到着し1948年(昭和23年)7月までの3年間、収容生活を送ります。

西倉先生のお話

着いてから10ヶ月の間にね、極寒と飢えで25%の人間が亡くなりました。高齢者や、体の弱い人間から亡くなっていくんです。

寝ながらみんなと田舎の事を話したり、帰りたいと励まし合って、お正月が来ると「今年もダメか」と、話していましたね。

ソ連から思想教育をされましたが、私はそんなものハネつけました。

死んだ戦友の遺体を穴に埋めるのですが、夜になると狼があさって食べていくんです。

Q.いつ帰れるかわからないダモイ(帰国)まで、先生を支えた原動力は何ですか?

死んでたまるか、という気持ちでした。

「祖国の土を踏むまでは、白樺の肥やしになるまいぞ」を合言葉に、帰国まで頑張りました。祖母も毎日、鎮守様に無事のお祈りをしていてくれたのです。

Q.舞鶴港について帰国を果たした時は、どんなお気持ちでしたか?

そりゃあ感無量ですよ、言葉で言えないです。舞鶴港に着いて浴槽の風呂に入って、日本食の刺身を食べた事、これが忘れられないです。

2016年12月 聞き取り

…西倉先生もそうでしたが、シベリア抑留から帰国された方々は「神仏のお陰」と仰る方が多かったです。

100万人以上が連れ去られ、約半分が亡くなったシベリア抑留…。

「生きて帰れたのは神仏のご加護」

「今日があるのも神仏のお陰」

この一言一言が、重く胸に刺さりました。