北沖直行 先生
1921年(大正10年)生まれ。
北沖先生は、九六式艦上戦闘機のパイロットとして支那事変を戦われた方です。
ゼロ戦ではく、九六艦戦です。ゼロ戦よりひとつ前の機種です。
2017年の時点で、何とご自分でお車をご運転されていました。
お邪魔させていただいたご邸宅は松山の中心部から車で約一時間ほどの山間部にある、東京ではまず考えられないような古い立派な建物で、私は何か戦前にタイムスリップした様な気がしました。
1941年(昭和16年)に、4ヶ月間いた大村航空隊から元山航空隊へ配属。
※この時の飛行隊長は、黒澤丈夫大尉。
後に1985年(昭和60年)8月の日航ジャンボ機123便墜落事故において、 上野村村長として現場の陣頭指揮を執っていた方です。
その後、北沖先生は九六式艦上戦闘機で漢口から宜昌へ進出し、南京爆撃の中攻(九六式陸上攻撃機)の護衛任務に就きます。
しかし燃料の都合上、北沖先生の機は中攻隊の護衛は途中までしか出来ません。
ですので、主たる目的は「攻撃隊に戦闘機の護衛がついている」という事を敵方に知らせる事だったのです。
しかし漢口で、ゼロ戦の訓練中に負傷して、1942年(昭和17年)に帰国。
佐世保海軍病院に入院し、この年に海軍を除隊されます。
北沖先生のお話
Q.失礼ですが、空を飛んで戦う事に、恐怖感というのは…。
A.怖かったら出来んよ。
「死んじゃったらどうする」と聞かれるけど、だからこそ死なない様に訓練するのよ。怖かったら出来んよ。
でも、そもそも、生きる事に未練がないのよ、搭乗員というのは。
朝、元気なもんが、夜にはおらんですからね。
特攻隊なんかも、あっさりしてたんじゃないじゃろか。(命に関して)あっさりしてるのよ。
ゼロ戦は、九六戦とは比べものにならないほど良かったけども、私は九六戦の方が好きじゃったですな。
2018年12月 聞き取り
…おん歳97歳で、なお矍鑠としていたそのお姿が、忘れられません。
※右が北沖直道 先生