横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️一式陸攻の雷撃①

天野環 先生

1922年(大正11年)6月26日お生まれ。

松山ご出身で丙飛五期。 

1942年(昭和17年4月1日に三沢航空隊に入隊。
その後はウェーキ島に行き、そこからミッドウェーの雷撃に向かい、その後にサイパンを経てラバウルに進出します。 
 
1942年(昭和17年)8月7日、米軍は突如ガダルカナル島およびツラギ島に上陸。

翌8月8日、「第一次ソロモン海戦」。

同日、三沢航空隊の一式陸攻9機を零戦18機が護衛する事となり、ラバウルに到着したばかりの天野先生は一式陸攻に乗り込み、ガダルカナル周辺の敵輸送船団撃滅に向けて出撃します。 

海面スレスレで敵のド真ん中を突っ込み、しかも手前で反転しないのでそのまま突っ切るのが、一式陸攻の雷撃です。

天野先生のお話

(敵輸送船の)1キロ手前で魚雷を落とす。反転しないでそのまま突っ込むんよ。敵の顔も見えるよ。

前からも後ろからも、ビュンビュン弾が飛んで来よる。ワシは機の中で機銃掃射しとった。

97連発の弾倉を撃ち終わったらすぐ替えるのよ。手の皮が剥けたよ。

撃ってる時に、戦友の頭が飛んで来た。ほいで機長が「場所を代わったる」言うて、ワシは右の側方に移った。

じゃけども機が海に墜落して、機長もみんな死んでもうて、助かったのは二人だけじゃ。

で、海で戦友が「天野伍長、死ぬなよ」と叫ぶ声が聞こえて来た(※当時、天野先生は「天野伍長」とあだ名されていました)。

サメに噛まれる恐怖

サメは敵弾より怖かったよ。ワシはサメに左手を噛まれたので、抱き寄せて蹴り飛ばしたよ。

そこで気を失って手が痛くて気が付いたら、軍艦の医務室のベッドの上にいた。敵に拾い上げられたんじゃ。

ワシは全身包帯やし話せないから、手振りで「はよ殺せ、殺せ」言うたよ(笑)

…天野先生はそのまま、ニュージーランドウェリントンの病院へ移送され、そこから「フェザーストン事件」に巻き込まれる事になります。

この話も壮絶ですが、ここでは割愛します。

※②に続く…