横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️偵察機『彩雲』の彼方へ①

田中三也 先生

1923年(大正12年)生まれ。海軍少尉。

偵察機『彩雲』搭乗員。第343海軍航空隊。

田中三也先生は、光人社NF文庫からご著書も出版されています。 


田中先生は「敵艦発見の第一電に、命を懸ける」偵察員として、1942年(昭和17年)8月の第二次ソロモン海戦を初陣に、南太平洋海戦、インド洋、ソロモン諸島、トラック島、フィリピン、そして沖縄と、終戦まで戦って来られました。

 

南太平洋海戦では、米空母『ホーネット』を第一に発見し、その位置・進路・ 速度等を味方に打電しました。 
レイテ島沖海戦では、先生の敵状報告に従って出陣してきた特攻隊が先生の眼前で次々と敵艦に体当たりして行くのを目の当たりにします。 

 

戦争を通じて搭乗したのは『九四式水上偵察機』『九五式水上偵察機』『零式水上偵察機』『二式艦上偵察機』『彗星』『彩雲』…。

いずれも偵察任務です。
 
大空を駆ってのそのご活躍は、とても簡単には紹介し切れません。

ほんの一部だけご紹介させていただきます。

 

田中先生が特に印象に残っておられるという、1944年(昭和19年)5月の「あ号作戦 挺身偵察」。

敵艦隊を上空から写真撮影して、その所在地や詳細を報告する任務です。

先生からの報告を漏らすまいと、全軍が耳をそば立てて聴いていました。

その後、レイテ島や沖縄でも同じやり方をされたそうですが、この時も先生は一機で敵艦隊の真上から急降下。
そして水面を這うように超低空飛行で敵艦隊の真っ只中を走り抜け、写真撮影を敢行します。

 

当然、敵の艦艇からは先生の一機に向けて、機銃から高角砲から猛烈な対空砲火が「機体が分解しそうなほどに」飛んで来ますが、敵はお互いの艦の同士討ちを恐れて途中で撃ち方を止めます。
これは「賭け」だそうです。

先生はある時は、あえて敵艦の横スレスレを飛びました。

しかし、敵は撃てない。
そういう時は「賭けに勝った」と思われるそうです。

…凄い。としか言いようがありません。
※②に続く