横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️第343海軍航空隊③

※②の続き

私の初陣が決まったのが、昭和20年5月…。

だけどね、前の日は全然寝られなかったですよ。 
いよいよ明日が命日かと思ったらね。

寝られません。 

 

(その日は)空襲を受けて、防空壕の中で、

「あの飛行機が帰る跡を付いて飛んで行け」

と命令を受けてね。
その時、防空壕の中の長いすに腰かけてたんですね。 
私が入り口にいたんです。

そして機銃の弾が防空壕の入り口に落ち始めたから、

「あ、近くなったな」

と思って私が動いた時、入り口に爆弾を受けたんです。 
私に熱風が来ましたよ。

フッ飛ばされて半分埋まったんです。 
 
中におった連中は、みんな鼓膜やられてフッ飛ばされて、12人のうち私だけが無傷で、あと11人は鼓膜やられて…。 

 

それで松山にいた連中は、その晩のうちに鹿屋に呼ばれて行きました。 
鹿屋では夕方になると、一式陸攻が桜花を抱いて出撃したり、特攻の爆装ゼロ戦を見てました。 
 
終戦間際は飛行機もオイル漏れが多くて、飛んでいても私も何度か引き返しました。 


最後は8月15日に上がって、鹿児島の上で5,000メートルで南西方向の種子島の方向に向かってたら、すぐそこに見える頃にまたオイル漏れで…。  
「エンジントラブルで引き返す」

と電報を打って帰って来て…。 
 
ただグラマンやP38やP51は、朝8時になると鹿屋の上空を周ってるから、我々はもう朝に上がったら鹿屋に帰るな、と。他の基地に行け、と(前もって言われてるので)。

 

8月15日は鹿児島県の出水に滑り込みました。 
そして昼を食べようかと、学校に寄って職員室のそばで食事をしてたら、12時に重大放送がある、と。 
という事を先生方がおっしゃってたので、

「聴こうや」

と。 
聴いてるうちに、

「これは戦争が終わった」

とわかったですね。

「負けた」

と思いました。 

もう、だって、鹿児島湾にアメリカさん(の戦闘機)が不時着したのを、グラマンがその上空を周って援護して、飛行艇がその不時着した機を救って行くのを私らの目の前でやってるんですからね。 

もう、負け戦はハッキリしてたですね。

 

出水は特攻機地ですから、玉音放送を拝聴してみんないきり立ってました。 
特攻の連中は、徹底抗戦だと叫んでいましたね。 
もういつ死ぬか、飛行機乗りはわからんですからね。 

私らは、8月21日まで沖縄偵察に毎日行ってましたよ。 
22日に、フライト停止です。

22日の夕方に、飛行服や写真を焼けと言われて火を放って焼きました。

 

※④に続く…

※右が、第721海軍航空隊 佐伯正明 先生

左が、杉野富也 先生