横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️第343海軍航空隊④

※③の続き

海上自衛隊には、昭和28年10月に入りました。

ある時、町の中で搭乗員の同級生に会いまして「海自でパイロットの募集をしてるけど、行くか」という話になりまして、仲間はみんなほとんど一緒に受けました。

私は昭和29年から30年の初めに鹿屋に行きました。そこで飛行機に付き合う事になりました。

鹿屋と縁が深いですね。土地の神様に呼ばれているのかも知れません(笑)

海自は昭和50年2月で定年です。でもやはり、自衛隊時代は楽しかったですね…。

軽飛行機の地上での訓練の教官をしていたのですが、あの頃が一番楽しかったです。

2016年12月 聞き取り

 

奥様との馴れ初め

…ちょっと話がさかのぼりますが、戦時中、鹿屋基地に移動する前に、杉野先生はご自身のお写真の裏側に取り急ぎご自分の連絡先だけを書いて、下宿していたお家のお嬢様にお写真を書いてお渡ししました。

「後で連絡をくれ」

と。 
とにかく、ゆっくりと手紙を書いている余裕が無かったそうなのです。 

そしてそのお嬢様は言われた通りに先生に連絡をして、それから先生と文通する事になりますが、そのお嬢様こそ、後に先生の伴侶となられる方です。 

 

裏側に連絡先を書いて渡したというその時のお写真を私も拝見しましたが、そこに写ってる先生のお姿の、何と凛々しく素敵な事…。 

 

お世辞でも何でもなく映画俳優みたいです。 
別の方に聞いたお話によると、杉野先生がこの事を学校等での講演会でお話すると、女学生達から嘆息が漏れるそうです(笑)。 

 

開戦の日に…

その杉野先生…。 
私は2017年の暮れに愛媛に到着して、その翌日に杉野先生と久しぶりの再会を果たせるハズだったのですが…。 
嗚呼、杉野先生はその数日前に急に体調を崩して入院されて、私が愛媛に到着した前日に、魂の故郷に帰って行かれました…。 

2017年12月8日。 
何と何と、76回目の開戦記念日に…嗚呼…。

合掌…。