横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️空襲で右足を切断…

佐戸輝先生
1923年(大正12年)生まれ。

1944年(昭和19年)、東部第6部隊に入営、その日のうちに関釜連絡線で京城へ。朝鮮第22部隊に所属。

3ヶ月後に除隊。 

1945年(昭和20年)3月10日の空襲では、お姉様のご家族が、全員死亡。

2ヶ月後、千葉県柏の高射砲第115連隊に入隊。

B29の大編隊をサーチライトで照らし、高射砲で迎え撃つ。

「日本の戦闘機が迎撃するんですけど、曳航弾がパパパパッと出て、綺麗でしたよ。

そのままB29に体当たりする戦闘機もあって、地上からは、ああーっという声が上がりました(日佐戸先生 談)」

 

1945年(昭和20年)7月9日、仙台に移動。

翌日、7月10日、仙台大空襲に遭遇。

 

日佐戸先生のお話

仙台駅の倉庫で眠っていたら「起きろ!空襲だ!」と言われて、見たら空が真っ赤。

空襲が終わったと思ったら、後から後から百何十機もやって来る。

私は危ないから線路に降りたんだけど、貨車にも火がつき始めて、気がついたら右足が引きづられてついてくる感じ。

よく見たらパックリで、

「やられた!しょうがねえ」

と思ったけど、動けない。

立てないんです。

このままじゃ焼け死ぬと思って叫んで仲間を呼んで、駅の外に出ました。

手術台の上に自分の足が…

夜明けに病院に運ばれたけど、段々返事も出来なくなりましたが、後は切るだけです。

手術が終わって見たら、切断した私の足が置いてあって、ウッと来ました。

その後、空襲の度に看護婦さんが4人がかりで担架で運んで避難させてくれました。これで終わりではなく、本土決戦がありますから。

戦後、義足が出来て歩けた時はうれしかったですね…。

また、あの当時は障害者への差別が凄かった。傷痍軍人だけではなく、知的障害や精神薄弱児への差別が。

だからみんなでまとまろうという事で、戦後ずっと、障害を持った人達と頑張って来ました。

2019年10月 聞き取り

※日佐戸先生は、障害者福祉会の会長を勤めてます。