横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

東京大空襲 経験者インタビュー⭐️母よ、姉よ、妹や弟達よ…①

亀谷敏子さん  1931年(昭和6年)深川生まれ

 

中学3年だったお兄様は「予科練を受けたい」とご両親に願い出た時に猛反対されましたが、「軍国少女だった」亀谷さんはお兄様に言われるままに、ご両親に内緒で志願書をポストに投函しました。

その結果、お兄様は16歳で予科練に甲種合格し、奈良海軍航空隊に入隊。

 

翌1945年。

亀谷さんのお宅では疎開の予定を延期し、3月末のお兄様の一時帰郷を迎えてから疎開する事になりました。

 

しかし…。

亀谷さんは、3月10日の大空襲でお母様と5人の姉妹合わせて家族6人を一晩で喪います。

そして3ヶ月後には、17歳になったばかりの予科練のお兄様も空襲で亡くなり、ついにはご家族はお父様と亀谷さんの2人だけに…。

 

亀谷敏子さんのお話

 

「今頃になって空襲警報のサイレンが鳴っているよ。軍は何をしているのかねぇ…」

これがあの晩、私が最後に聞いた母の言葉です。

父は私の手を引き、母達が先に避難した味噌屋のビルに向かいました。

避難先の味噌屋のビルは、地下室はもちろん、1階まで避難した人達で一杯でした。

 

しばらくすると、奥の方から物凄い悲鳴が聞こえて来ました。

ビルのガラス戸が溶け、炎が屋内に入って来たのです。

で聞いたら、このビルで500人以上の方達が亡くなったそうです。

ビルの外は火の海ですが「外に出なければ死んでしまう」と、父は消防団の静止を振り切って私の手を引いて、外に出ました。

 

しかし外に出ると、強烈な突風が、炎を運んで来ます。

炎の突風で私は吹き飛ばされ、味噌屋のビルの前の倒れた塀の下敷きになりました。

夜空を飛んでいるB29の操縦士が、ニヤリと笑っているのが見えました。

朝になり、大声を出して、ようやく助け出されました。

 

最初に避難した味噌屋ビルの1階には、折り重なった死体の山が燃え続け、とても地下室には行けません。

3月14日に、味噌屋ビルの地下室の遺体を探しに行くという情報を聞き、私と父と伯父の3人で向かいました。

地下室は腰あたりまで水浸しになった上にその水が沸騰し、それまでは熱くて地下室から遺体を引き出せなかっのです。

現場では遺体処理班の人が、水に浸ってグズグズになった遺体を地下室からどんどん運び出し、身元確認の為に外の道路に並べました。

私は家族を必死に探しました。

※②に続く