谷口知子さん 1933年(昭和8年)神戸生まれ
神戸市内への空襲が本格化する前に、郊外の有野村に疎開。
1945年(昭和20年)3月17日。神戸空襲。
愛媛にある第343海軍航空隊の「松山上空戦」の2日前、神戸市内が米軍機400機の空襲を受ける。死者6232人。
谷口知子さんの言葉
焼夷弾は、夕立の音がするんです。郊外から見る我が町は、真っ赤でした。
2、3日後、父を探しに神戸市内に行きました。
父は無事でしたが…。
よその方なんですが、家が焼け、真っ黒に炭化した息子の焼死体の前で「神様、これ以上、堪忍して」と、一生懸命に祈っている母と娘の姿がありました。
死んだ母親の前でじっと座っている女の子。
家族を亡くして呆然としている男の子。
空を睨みつける女性。
生田川に浮かんでいるたくさんの死体。
悲しそうな顔の遺体、苦しそうな顔の遺体、恨んでる顔の遺体、たくさんありました。
黒く炭化した遺体は、かなり綺麗なんです。
逆に真っ赤な遺体は、全身が焼け爛れたご遺体で…。長い間、花火はトラウマになりました。
ご遺体の間を歩いて行きましたが、私は恐怖心もなく、子供ながら異常な精神状態でした。
遺体を見ても何とも思わなくなってました。
また、迎撃の日本の戦闘機なんか、見た事ありません。
いとこは、6人のうち5人が亡くなりました。「お国の為に死んで名誉な事だ。良かったね」なんて、綺麗事です。
戦後、電気を付けて寝られる幸せを、噛み締めました。
出征していた兄も帰って来ました。
進駐して来た米兵は鬼畜でも何でもなく、優しかったです。
今の繁栄は、夢のまた夢…。
戦争さえなければ幸せです。
若い方は、平和が当たり前になっているんじゃないですか。
天が助けてくれた命。
生きている限りは、少しでも人様の為に…。
2019年12月 聞き取り