横澤史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…軍人インタビュー⭐️偵察機『彩雲』の彼方へ③

※②の続き

戦後は、1955年(昭和30年)1月に海上自衛隊に入隊。

3月には、かつて知ったる鹿屋航空隊に配属となり、航空士として対潜哨戒機PV-2、P2V-7に乗組。

1973年(昭和48年)11月に二等海佐として退官されるまで18年間、後進の指導・国防の任に就かれます。

その後、1975年(昭和50年)2月に日本航空機輸送(株)に入社。

今度は平和の空を羽ばたいて、フィリピン・日本国内を航空測量。

そして半年後。

そろそろ飛行機から降りる潮時かと考えていた時に、アフリカ・タンザニア沿岸部の道路建設の為の空撮を打診されます。

先生は「戦中・戦後の経験と研鑽の集大成として」迷う事なく引き受け、これに挑みます。

1975年(昭和50年)8月28日に名古屋空港を出発し、那覇・カラチ・ドバイ・ナイロビ等11カ国16の飛行場を経由してタンザニアに到着。

初めてのアフリカ大陸に興奮しながら、厳しい条件の中で測長500キロの撮影を無事に成功します。 
「撮影終了の瞬間は、機内は万歳、万歳だった」 

 海軍での飛行時間 1950時間 
 自衛隊での飛行時間 2700時間 
 民間での飛行時間 850時間

 総飛行時間 約5500時間

戦中・戦後と駆け抜けた35年の長きに亘る田中先生の空の歩みは、最後はアフリカ空撮でグランドフィナーレを迎えました。 

「今と戦前ですか? 今がいいです。いい世の中です。今は一番最高です。」

長年の思い出話と共に、そう語られた田中先生の笑顔を拝見して、私は確信しました。 
「田中先生は次に生まれ変わってもまた、大空を駆け抜けるんだろうな。今度は平和の空で…」

と…。

 

そんな田中三也先生ですが…。

2021年暮れに、逝去されました。

悲しみの極みであり、言葉になりません。

田中先生。

日本の為に戦って下さって、有難うございました。

安らかにお眠り下さい。

合掌。