横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️「絶対に生きて帰って、家族に顔を見せろ」

「お前の切腹は俺が預かる」と、隊長に止められ、戦後は学校の先生に

織茂領 先生

1923年(大正12年)生まれ。

海軍飛行予備学生 13期。

第二河和海軍航空隊。

偵察機『彩雲』搭乗員。

ご本人いわく「親の反対を押し切って海軍航空隊に志願した」との事。

終戦時、切腹を覚悟するも隊長に止められ、戦後は母校の日吉台小学校の先生に。

その後は、綱島小学校校長を経て、横浜市教育委員会に出向。

病院からの依頼を受け、擁護学校の校長にも就任。

織茂領 先生のお話

「我に追いつく敵機なし」「生きて帰れぬ偵察機」の『彩雲』搭乗員でした。

終戦時、隊長以下30名で切腹し最期を飾ろう、と覚悟しましたが隊長が、

「お前達の切腹は俺が預かる。日本の再建に尽くせ。いいな、絶対に生きて帰って家族に顔を見せろ。これが最後の命令だ」

と言ってね…。

戦後は母校の教壇に立ちました。

生き物が好きだったので、鳥や猿などの飼育を通じて、命を大切にする教育を心がけました。

擁護学校の校長も、自分から名乗り出ました。病気を持つ子供達の学業について現場が困って悩んでいると聞き、ほっておけませんでした。

あの戦争で多くの若者が即席で軍人にされ、消耗品の様に殺されました。戦争なんてバカげた事。誰も幸せになりません。

「正しい事にはとことん突き進む」これが戦争で培った私の信念です。

戦うなら、武器ではなくボールを持って競い合えばいいんだよ笑

…我々が、想像もつかない世界を見て来た織茂先生。時折見せる鋭い眼光の中にも、そこはかとない温もりを感じさせる方でした。

最後に微笑んだお顔が忘れられません。

2018年8月 聞き取り