横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️第343海軍航空隊②

※①の続き

 

1945年(昭和20年)3月19日…

前の日の18日に、ベテランの古い人が偵察に出て、敵の機動部隊を発見しとったんです。

だから確信してました。

「明日は敵は必ず来る」

と。 
その前、14、15日から第一配備だったんですね。

いつでも飛べる様に、外出は全然無しでした。
でも私らは一番若いから、南方帰りの古手の人達が優先的に飛ぶんです。 
 
当日の3月19日も偵察機を3機、暗いうちから見送って…。

そのうちの1機は、脚の故障か何かで引き返して来た気がしますね。 
別の1機が、敵の機動部隊を発見しました。 
「敵の大編隊200~300機が呉に向かってる」

という報告をして、そのうちに、

「我、エンジン不調で引き返す」

という電報を打ったんです。四国山脈を越えたあたりの電報で。

 

戦闘指揮所には、Z旗が上がっとったです。 

紫電改』は全機離陸したんですよ。

あの時はですね、凄かったですね。

私、爆音を聞いてましたけど…。

物凄い。40~50機、一斉離陸ですからね。

 

それはそれは勇ましいし、勇壮ですよ。 

本当にあの、全機離陸の爆音の勇ましさはね…。

本当にあの爆音は、もういっぺん聞いてみたい。 
血沸き、肉踊るという感じです。

 

空中戦は下から見ていました。

面白かったと言ったら悪いけど…。 

まず私は朝飯を食べようと思って、ごはんの上に生卵を割ってたんですよ。 
そうしたら、グラマンの銃撃が…。 
1機目がね、バリバリと来たんです。

地上に機銃掃射です。

体の周りに曳航弾がビシャビシャビシャとね…私は3機の機銃掃射を受けました。 
私が走った後に、13ミリの穴が空いてるわけですよ。

グラマンの翼と翼の13ミリの間が50センチ3門ありますからね。

多分、私の体が機銃と機銃の間に入って、間一髪だったですね。
 
これが第一の命拾いでした。 
そして上を見たら、巴戦やってるわけです。

火の付き方で、

グラマンだ!」

紫電改だ!」

と…。 
紫電改』は、上でパッと火を吹いて空中分解になるんです。

グラマンは黒い煙を吹いて火が付かんのですよ。

下から見ててやっぱり『紫電改』が優勢でした…。 

先の電報で、向こうの高度が4,000メートルだとわかってるからね。 
こちらは8,000メートル位で待ち構えとったんですからね。

そして上から、ガッーと突っ込んでますからね。 

紫電改』が優勢という事でやっぱり下でも、

「やったー!」

と言ってましたね。

 

そこで、ある偵察機が…。

この偵察機こそ、敵の状況を本部に連絡して来た人達です。 
その偵察機が、途中でエンジントラブルで、「我、引き返す」

と電報を打ってるんです。

 

そのうちにその偵察機グラマンに取り囲まれて、そしてそのまま体当たりしたみたいですよ。

 

グラマンは単機ではなく2機編隊で飛んでるので、前の奴に当たって、もう1機にも勢い余って当たって、結局、その偵察機は体当たりでグラマン2機撃墜になったらしいです。

すぐに感状をもらってね…。

 

※③に続く…