横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️真珠湾攻撃に参加②

※①の続き

今まで訓練でやっていた様に、水面から10メートルの高さで敵艦に迫りました。

私は、魚雷の投下索を引っ張る役目でした。

「(戦艦)コロラド型だ!長門と比べて小さいな」

と感じました。

「しかし、もしかして(標的艦)ユタかな」

とも思った。

「間違いなくユタだ」

と思って、ガッカリしました。

(魚雷投下後に)敵艦の後甲板を見たら、真っ白な水柱が二本上がってました。

船と同じ高さです。

その時の気持ち?

(『蒼龍』の中の)ベッドの上でも敵艦の形を覚えていたのに「ユタかよ…」という気持ちでした。

ユタはコロラド型とほぼ同じなのです。  

1から2日して、アメリカのラジオがユタ沈んだと報道して「やはりユタだったか…」と…。

申し訳ないです。  

その後、帰りにウェーキ島を攻撃しましたが、 アメリカの戦闘機は二機しかいない。

何事も無かったように返ってきましたが、しかし実はこちらは二機落とされてました。

帰国後、宇佐航空隊に入りました。

(翌昭和17年の)1月の10日頃に、南方に行く事になりました。

セイロン島ツリンコマリーを攻撃しました。

爆弾を落とす時、風貌を開けたら、花火の匂いがしました。

軍艦はいなかったです。

その後、南太平洋に陸軍を散兵したのは間違いです。

ミッドウェーの事は話したくないです。

「今と昔、どちらがいいか」ですか?

私は海軍が離れない。今でも海軍軍人です。

今はいい時代だと思います。

「負けた事を、どういう風に受け入れたか」

ですか?

終戦の時、涙が止まらなかった。

悔しいとかホッとしたとか、これ以上は無駄とか…どういう理由とか、説明出来ませんが、涙が止まらなかった。

とにかく、亡くなった人はかわいそう。

という思いが強かったです。

2019年5月 聞き取り