横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️真珠湾攻撃に参加①

 

吉岡政光 先生

空母『蒼龍』に乗り組み、真珠湾攻撃に九七艦攻で参加され、敵艦に命中させます。

1918年(大正7年)お生まれ。

まさか令和の世でお会い出来るとは…。

昭和ではなく、平成ですらない、令和に、です…。

吉岡先生のお言葉

「蒼龍」で初めて2段ベッドでした。陸軍の南寧作戦を支援する為、昭和15年の観艦式に参加した。

九七艦攻、低空で飛ぶ時は水の上10メートルです。

真珠湾攻撃に参加

真珠湾攻撃の時、朝に起きたらヒトカップ湾に着いてました。

死ぬとか生きるとかは、もう考えてないです。帰って来られないと思ってました

地図を広げて眺めましたが、悲壮感は無いかったです。ただ、親父に知らせたいなあ、とは思ってました。

朝ごはんは、テーブルの上にこぼれるほど、10品以上ありましたが、ごはんは一口しか食べられなかったです。

早く攻撃に行きたかった。

それまで、魚雷を積んでの雷撃訓練はほとんどなかったです。

ですから出撃する時、魚雷は重いので神経質になりました。

(魚雷を抱いての発艦は)ほとんど初めての経験です。大部分の人間は初めてでした。

(母艦から飛び立つ時)一回垂直に落ちて、発艦しました。

飛び立って、艦隊の上を一回りしたら大編隊が出来てました。

私の後ろに4機、雷撃機がいました。

空は暗がりで発艦して、発艦が終わる頃には明るくなり、水平線が見えました。

雲が80%。下に海が見えた。それがハワイまで続きます。

「あれが真珠湾だ」

ハワイの上空は、雲が高くなって、高い山を越した時に軍港が見えた。

「あれが真珠湾だ」そう思いました。

下の緑の林で、ほとんど家は見えない。

高度が千メートルになった時、陸軍の飛行場が見えました。

黄色い色が2列に並んでて、5〜60機いました。

そして2000メートルの高さから攻撃に入って行きました。

敵艦に800キロの魚雷を落とすと、浮上してバランスを崩します。

逆算すると敵艦から400メートル離れた所から突っ込まないといけません。

※②に続く