以下は、岐阜女子大学客員教授 矢野義昭 先生(元陸上自衛隊 陸将補・元第一師団 副師団長)から教わったお話です。
仁科芳雄博士が携わっていた原爆開発は、1945年2月、二号計画中止で頓挫。
これが定説です。しかし実際は違います。
海軍はF計画といって戦艦大和級のお金を注ぎ込み、空襲が激しい日本国内ではなく北朝鮮において研究を進め、終戦間際に原爆実験に成功していました。
日本は言われているほどコテンパンに負けたわけではありません。
大空襲を受けたドレスデンでさえ、生産能力は落ちていなかったのです。
満州・海城のウラニウム鉱山は、満鉄の地質学者が1938年に発見しており、北朝鮮はウランやトリチウムの宝庫です。
日窒コンツェルンを一代で築いた野口遵が北朝鮮で大規模な発電所を幾つも建設しており、興南にアジア最大の核開発の拠点を築いていたのです。
「日本に核分裂物質がなかった」という説自体が誤りなのです。
日窒は興南においてジェット燃料を製造し、その他ロケット、ミサイル、ジェットエンジンといった最先端の研究に取り組んでおりましたが、終戦間際の1945年8月12日、その興南にて水上での原爆実験に成功。
これは中国やソ連の新聞にも掲載されており、アメリカの諜報機関も確認しています。
その破壊力は、ソ連の新聞によると推定で広島型原爆の約10倍。
1949年に核開発に成功したソ連しかり、中国、北朝鮮の核開発は、これらの日独の科学力の遺産が基盤となっています。
ただ、原爆開発に関わりながらもロシア人と結婚した武谷三男の様な親共スパイを通じて、日本の情報はソ連に筒抜けとなり、そこからアメリカにも抜けていたと予測されます。
ソ連による対日参戦は、この興南を押さえるというのも一つの大きな目的でありました。
この興南では終戦後、10月まで戦闘が継続されていたという話もあります。
①日本としては「唯一の被曝国」というポジショニングを保ちたい。戦犯に問われたくない。
②中国やソ連は、原爆の技術を日本から盗んだと知られたくない。
③世界一の核保有国アメリカは「日本は原爆実験に成功していた」という事実を封じ込めたい
以上の三者三様の思惑が交差し皮肉にも利害が一致して、「日本は戦時中に原爆実験に成功した」というこの事実は伏せられて来たのです。