横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️ほぼ麻酔なしで片足切断…

ほぼ麻酔なしで片足を切断

「ノコギリで切る音が聞こえる」

内貴直次 先生…。

いま振り返っても、五体が裂かれる思いです。

1921年(大正10年)9月5日生まれ。

日の本の

健き男(おの)の子は

ひたすらに

捧げつくさむ

大君のため

内貴先生が1941年(昭和16年)12月10日、現役兵として近衛歩兵第5連隊に入営した日に詠まれた辞世の句です。

「私は早く戦死したかったのです。名誉な事ですから」

その後、陸軍歩兵第224連隊 陸軍少尉。

「生きて帰れぬニューギニア」と言われた激戦地•ニューギニアのサルミに1944年上陸。

内貴先生のお話

私はニューギニアの入江山を死に場所と決めてました。

恐怖感なんか全くなかった。

敵弾で左足を負傷して、そこで死にたかったんですが、担架に乗せられ後方に運ばれました。悔しくて涙が出ましたね。

かくして私は後方の衛生隊に入れられましたが、充分な治療などあるはずもなく、そこは傷ついた兵隊達のうめき声が充満する、まさに生き地獄でした…。

苦しんでる兵隊達が次々と自決していくのですが、ある兵隊は死ぬ間際に「内貴少尉殿!お世話になりました!」と叫んで亡くなっていきました。

私は一週間後、負傷した片足をほとんど麻酔なしで切断しました。ノコギリの音が聞こえてくるんです。

切断した後、担架に乗せられて後方に運ばれるのですが…。

途中、大雨だったり川があったりすると、転んで下に叩きつけられるんです。

どれくらい痛いか。

心臓の鼓動の度に脳天に激痛が走ります。3か月間はその激痛が続きました。死にたいほどの苦しみでした。

 

…内貴先生、壮絶な話でした。

私は、終戦70周年にあたる2015年の2月15日に内貴先生のご邸宅にお邪魔しました。

2月15日…。

シンガポール陥落の日。

イギリスの100年に及ぶアジア侵略の拠点•シンガポールが陥落した日。

そして日本陸軍が最も栄光に輝いた日。それが1942年2月15日です。

奇しくも、内貴先生と同じく片足を負傷して傷痍軍人となった陸軍上等兵、私の祖父 横澤利雄の33回目の命日に、私は内貴先生とお会い出来ました。

因縁めいたものを感じます。

内貴先生は、その時も何と毎日プールに通い、1000メートル泳ぐ事が日課となっていました。

そんな内貴先生…。

私がお会いして50数日後の2015年4月9日、金沢に向かう新幹線の車中で倒れ、帰らぬ人となりました。

訃報に接し、私は天を仰いで慟哭し、地にひれ伏して嗚咽しました。

…人との出会いは「会った回数」ではありません。

毎日顔を会わせていても気持ちがつながらない人もいれば、たった一回会っただけでも、忘れられない人もいます。

私が内貴先生にお会いしたのは、あの日、たった一日だけですが、私は内貴先生を終生忘れません。

また、恐らく内貴先生にインタビューしたのも、私が最後だったと思います。

とにかく…。

内貴先生の長い長い、気の遠くなる様に長かった「戦後」が、やっと終わったのだと思います。

今頃は戦友達と再会し、酒を酌み交わしている事でしょう。

内貴先生、私はあの日にお話しした人生のテーマである「大東亜戦争敗戦責任の追及」を、一生続けます。

たまにはこちらに覗きにいらして下さい。

死者と生者は一体です。

内貴先生は、私の胸の中でずっと生き続けている。

内貴先生は亡くなってはいなかった。