横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️ペリリュー島のサムライ

敵将が絶賛したペリリュー島の守備隊

ペリリュー島での日米両軍の火力の差は、恐らく数百倍だと思います。

にも関わらず、死傷者の数はほぼ互角。

日本人として忘れてはいけないペリリュー島の戦いで、1944年9月の米軍上陸から終戦後の1947年まで、敗北を信じず戦い続けたサムライ。

2017年10月、水戸 歩兵第2連隊の元軍曹 永井敬司先生のご邸宅でお話を伺いました。

終戦から二年間も戦い続け、生還した日本軍人34名の一人

永井先生1921年(大正10年)茨城県生まれ。

ペリリュー島の戦いの時には、水戸歩兵第2連隊 第2大隊(富田少佐指揮)本部付。
一万人の将兵が玉砕したペリリュー島で、生還した日本軍正規兵34名の中のお一人です。

永井先生のお話

みんな真面目に死んでいきました。「天皇陛下万歳」と言ってね。

「お母さん」と叫んで死ねなんて、そんな女々しい兵隊はいなかったですよ。

そんな事を言ってたら、いくさになりませんよ。

私らの第2連隊はよく訓練されていたから最後はやはり「天皇陛下万歳」です。

だいたい、22〜23歳くらいの年の若い人達が真面目に死んでいきました。

富田少佐の最期は自決じゃなく、突撃です。
一日目のイシマツ、イワマツ陣地(オレンジビーチ)の戦いで、死体が累々だった。米軍の死体もね。

千明大隊長が頑張ってくれて、米軍に大打撃を与えたんです。

当初は富田大隊長が自決しようとしたんですが、周りが「自決より突撃をしましょう」と止めたんです。
それで富田大隊長軍刀を抜いてね、「それでは」と言って敵陣に斬り込みました。

同時に無傷だった天山の砲兵陣地から掩護射撃がありました。
富田大隊長は、その友軍の援護射撃の中を突っ込みました。

米軍への恨み?

全くないです。

死んだ米兵の顔を見ると、みんな若いんだよな。

彼らはね、胸に彼女の写真を入れています。で、米軍の死体を見ると、だいたい入ってる。

何だかかわいそうになっちゃってね。

彼らだって、国に帰れば家族や恋人がいるだろうに、と…。

我々は投降した捕虜ではない

私は昭和22年まで、終戦を信じずに戦いました。

それをある新聞社が「手を上げて投降」と書いたので、私はその新聞社と大ゲンカしました。

これは私だけの問題ではなく、真面目に死んでいった戦友達の名誉の問題なんです。

米軍の司令官が絶賛

終戦から二年後、澄川少将の命令解除を受けて我々はジャングルから出てきました。

そこで米軍の司令官が、

「あなた方は捕虜ではない。戦争が終わったのに立派に任務を遂行したではないですか」

そう言ってくれたんです。

 

…凄まじい話でした。

そんな永井先生ですが…。

2019年11月4日、奇しくも私の誕生日だったのですが…。

入院先の病院でお亡くなりになりました。痛恨の極みです。

私は永井先生を、終生忘れません。

享年98歳。合掌…。