戦後の日本は、経済成長以外の全てのものを切り捨てて来ました。
倫理道徳、精神防衛、文化防衛、伝統護持…。そういったものは、ほとんど無視されて来ました。
しかしその中には捨ててはいけないものが沢山あった。
長い間、戦後の学校教育現場は社会党・共産党といった革新系の方達が支配的でしたが、そもそも私は戦後の学校教育で教える「自由」という言葉があまり好きではない。
「自由」には責任が伴います。
社会の秩序や倫理道徳を破壊する自由なんか、認められません。
しかし認めてしまっているのが、今の野放図な日本社会です。
今の学校教育での「自由」という言葉は「欲望の無限解放」「単なる自分勝手」の別名です。
倫理道徳とは人間の欲望を自制する為のもの。
それを教える前に、思春期の若者に「自由」だけ教えたら、彼らは若くして、目が釣り上がった欲望解放の修羅道に陥ります。
そもそも自由主義とか民主主義というのは、数百年に及ぶ西洋人の血みどろの戦いと、キリスト教プロテスタントの葛藤の中から生まれたものです。
そういった歴史的バックグラウンドがない日本人がいくら声高にそれを主張しても、着なれない洋服を着ているようなもの。
単なる言葉遊びにしか見えません。
ただ、戦後の学校教育が、国家というものに対してアンチになる心理も、私は理解出来るのです。
国に尽くす事はどこの国でも「義」では在りますが、その「義」を疑わしむる何かが、ためらわせる何かが、我が国にはあるのでしょう。
戦争中、銃後国民も将兵もあれだけ命懸けで国に尽くしたのに、戦後の日本はそれに報いる相応しい評価や敬意を払って来なかった。
100万人の陸軍将兵が戦わずして餓死・戦病死という、世界史に例のない自滅戦争をやっておきながら、その責任者達は戦後、全く裁かれる事はなかった(その最大の責任者が山本五十六だ、という事はいつも述べております)
ですから、革新系の方達のマインドには、国に「申し訳なかった」と膝まづかせたい真理があるのだと思います。
そしてこれは、その通りだと思います。
100万人餓死・戦病死で、その責任者が全く責任を追及されずに、山本五十六みたいな最大の責任者が逆に英雄扱いされる国家国軍なら、「我が子を戦場に送るな」という社会党・共産党の言い分に理がある。
国民が命を懸けて尽くす国家が、その献身を踏みにじる国家であるなら、尽くしたら自分が破滅しますから。
また、そんな国家なら、命を懸けて尽くしてはいけないと思います。