終戦時の海軍大臣 米内光政は、総理大臣の在任中に満蒙開拓団を募り、日本人を何万人も満州に送り出しました。
そしてその数年後の昭和20年8月、ソ連軍が攻めて来て、日本人婦女子に虐殺・暴行を繰り広げました。
しかし米内は、満州に開拓団として自分で送り込んでおいて、ハシゴを外されて置き去りにされたその人達が地獄に叩き落とされたのを「天祐だ」と大喜び。
同胞が大勢虐殺されているのに…。
この米内は、戦後日本では「平和主義者」と称えられています。
しかし、悪党がやった事を「善行である」と規定したら、全てが歪む。
いま書いていても、私は怒りで震えて来る。
満州では結局、戦闘が終わっても殺戮や婦女暴行が続き、翌年の春までに婦女子を中心に20〜25万人の日本人が亡くなりました。
殺戮を逃げ切っても、寒さで昭和21年の満州の冬を越せないで凍死していくのです。
まさに、捨てられた捨て子の恨み。
戦後、日本人がなぜ祖国を憎んだのか。
それは敗戦のルサンチマン(怨念)です。
「憎い」という事は同じエネルギーで「愛していた」とも言える。
「あれだけ尽くしたのに、裏切られた」という怨念。
大東亜戦争は忠勇なる陸軍将兵100万人が戦わずに餓死、戦病死。
この方達は、日本最良の人達です。
まさに「日本人による日本人殺し」。
また、万余の海軍将兵が、山本五十六や南雲といった数人の面子の為に犠牲になっている。
だが、誰もこれらの責任を取っていない。
責任の追及すらされていない。
「上層部の敗戦責任を追及する」という概念が、昔の日本人には、そもそもないのかも知れない。
旧軍という、天皇を頂点とする階級ピラミッドの中では、むしろ通常の官僚組織以上に上司の権威は絶対だった。
だから「指導者達の敗戦責任の追及」というのは、無意識のうちに何かその背後の天皇に弓を引く様な気がして、気が引けるのかも知れない。
しかし実際はそんな事はないのだから、前の世代がやらなかった事を、我々がやらなければいけない。