万葉集では、花といえば梅。
古今和歌集で、花と言えば櫻。
古今和歌集は、幻想的で女性的。
万葉集でも櫻の美しさに詠嘆していますが、古今和歌集では桜の美しさの背後にある、間もなく散り行く切なさ、儚さ、別離の寂しさ、そういったものを描いています。
万物は無に帰する所にその本質がある。
だからこそ、今が愛おしい。
まさに日本精神の根幹です。
ですから私は、はちきれんばかりに輝いている青春真っ盛りの若い子達を見ていても、その背後にある「儚さ」も見てしまう。
櫻と青春が、重なって見えてしまう。
青春というのは、儚いものです。すぐ終わってしまう。煙の様に儚い。
一瞬だけ輝いて散ってしまう蛍の様に儚い。
しかし青春真っ盛りの若い子達は、実は青春時代が儚いとわかっていないのです。
いつまでも続くと思っている。それがまた切なさを引き立たせるのです。
そしてこの無常観こそ、徒然草や方丈記といった中世の草庵文学の骨子にして、日本的世界観の根幹です。
終わりがなければ美ではない。永続性は美ではない。
現代で言えばまさに三島由紀夫文学の世界観に引き継がれていると言えますが、その源流であるこの古今和歌集の世界観においては、現実をありのままに描写しても意味がないのです。
現象の背後に夢を見る。
つまり、具体的な描写をしないで抽象的な短い言葉でいかにイリュージョンを描ききるか、聞き手に幻想を浮かび上がらせるか。
これが歌人の腕の見せ所。
これが、古今和歌集の技法です。
あくまでも抽象的に、です。
一方、万葉集では、男女の愛でも何でも、もっと具体的なのです。
日本的な美意識は、万葉集の後の古今和歌集で成立したと言われています。
そして実は私は、サザンオールスターズの曲にも、これらに通底するものを感じる。
サザンオールスターズの曲というのは、抽象的な表現で、聴き手の瞼に幻想的な映像を浮かび上がらせる。具体的な描写をしない。まさに現代の古今和歌集です。
つまり、サザンオールスターズの曲に惹かれる時、我々は宮廷千年の時を超えて、古の歌人たとつながっている、と言えると思います。
また、サザンオールスターズの曲というのは華やかさの奥に、過ぎ去り行く時間への切なさ、儚さ、夏の盛りを過ぎて吹き抜ける秋風の様な寂しさ…そういったものを感じる。
これがまさに、古今和歌集や中世草庵文学の骨子として形を変えながらも「無常観」として受け継がれている、我が国独特の世界観だと思います。