横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

今こそ、伝えねば…旧軍人インタビュー⭐️根っからの慶応ボーイ

 

神代忠男 先生  1922年(大正11年)生まれ。

慶応大学経済学部3年時に、大学生も学徒出陣で徴兵される事になり先生は覚悟を決めます

神代先生いわく…

元々うちは、武家なんですよ。

学徒出陣の時、母は心の中は知らないけど、頑張って行って来いと私を励まして…。今と比較にならないですね。日本が負けると思わなかったんだから。

との事でした。しかし何と出陣学徒壮行会には

「東条首相の話を聞いても仕方ない」

「雨の中行っても勝てるわけじゃない」

と欠席。有楽町のダンスショーを見に行っていたそうです。

1943年12月に陸軍に入隊。内地で過ごし、戦地に赴く事はなかった。

神代先生のお話

私は心底、慶応が好き。慶応バカです。慶応の為なら何でもする。慶応は入ると暖かく包んでくれるんです。
私は小学生から慶応ですが、よそから来た人間も、一年経つと慶応に染まります。  
(慶応に籍を置いてから)51年以上の人は1年にいっぺん呼んでくれるし、銀行に行っても、私の事を匂いで慶応っぽいとわかるらしい笑
今でも慶応に、2週間にいっぺん行ってます。  
戦時中は軍隊優先だから、戦争終わるまで白米や肉や魚を食べてた。軍隊に行った中では一番幸せな方です。家に帰ってビックリしました。
皆さんに一番言いたいのは、みんな今のうちに戦争体験を、聞こうという風潮が…今までそんな事は何十年もなかったのに…。
96歳以上じゃないと軍隊に行ってないです。  一番大事な事は、たくさんの人から話を聞いて、自分の頭で考えて欲しい。百人いたら、百人の話がある。
一人の話で「軍隊はこういうもんだ」と、思わないで欲しい。
近衛(師団)はね、1連隊だけが天皇を守る。3連隊は気が荒いんです。
「お前らは銀座で女と遊んでただろう」と言って、1日平均20回殴られまして…自分より星が一つでも上の人が言う事は、天皇陛下が言う事ですから。
で、私の顔が水ぶくれになって、母親が私の顔見て泣いてました。
ただ、私は、なかなか部下を殴れなかった。
壮絶な空襲体験
私、一度、命が危なかったんです。
浜松市内の飛行場近くで夜、空襲で防空壕に飛び込んで、私の部下も防空壕に入った。
その時に敵の機銃掃射があった。そうしたら彼がギャーッと言った。
機銃がワンバウンドで腹に入って、驚いちゃった。噴水の様に血が出て。
軍人だから空襲下でも担いで医務室に連れて行ったら 医者が「あ、ダメだ。死んでる」って言って…。
空襲は毎日でした。防空壕の壁に敵の艦砲射撃で人間がペチャンコになって張り付いているのも見ました。しばらく飯、食えなかったです。
実際に敵と殺し合ってた友人に聞いと、話さないですね、戦争の話は嫌がる。
本当に苦労した人は話さないですよ。人を殺したのがトラウマになってる。   
戦後、慶応だけ、10年かけて戦没者の名簿を作り、冊子にしました。
どこでいつ死んだかと、1人でもわからなかったら、とことん追求したんです。
平和が一番
今、私は港区で語り部の会をやって、小学校を回ってます。
人間てのは、一生に一度は、必ず殺したくなる。しかし殺したら犯罪です。
もしかしたらいい奴だったかもしれない。   何人も殺すと英雄。そんなバカな話ないでしょ?
人間には欲がある。それがなくならない限り、戦争はなくならないと思う。 
人間は悪知恵で色んなものを発明して、動物を食っちゃって…。犬だっておいしければ人間は食べますよ。人間て非情ですね。
しかし欲がなくなったら、活力がなくなる…。
日本は一体、どうなるんだろう…。
戦後はですね、虎ノ門アメリカの資本入れて35年社長やって、56カ国行きました。アメリカと戦争したのにね笑。平和が一番です。
その面影に、どこまでも青春の香りを残す慶応ボーイの神代先生ですが…。
2021年8月8日。98年ぶりに、魂のふるさとに還られました。
今頃は、戦死した慶応大学の仲間達と、楽しく同窓会を開いている頃かと思います。
はたまたあちらでも早慶戦を観戦しているか…
安らかにお眠り下さい。
合掌。