愛の極限、究極の一体性。
それは「一緒に死ぬ事」でしかない
リマインドになりますが…。
あと数時間後に共に自決する陸軍中尉夫妻…。
しかし…。
死を目前にした「今宵、人生最後の夫婦の営み」の、何と甘美な事…
終わりがなければ美ではない。
永続性は美ではない。
死ぬ事を前提にしてこそ、その愛は、闇の中でこそ輝きを放つ発光体としてきらめく。
死のみが裏付ける事が出来る、
二人の究極性の一体性…
愛の為には死なねばならず、その「間もなく確実に訪れる死」こそが、二人の更なる親和性を担保する様な、一夜限りの営み…。
死を背後に控えた人生最後の性交においてこそ、その晩にこそ、その時にこそ、めくるめく性の悦びはその至福の極みに達し、愛と忠義とエロスが三位一体と成し、男らしさの極限において、女らしさの極限において、愛と歓喜の頂点で人生に終止符を打ち、その美は完結して命の蓋が永久に閉じられる。
死の緊張感が、激甚なる性の悦びを、極限まで高める…
そしてその死の刹那においてこそ、太陽はその成就を寿(ことほ)ぎ、自然界は祝福の頭を垂れるであらう。
栄光の絶天に白雪の様な輝ける死があって、栄光の極限で時間を止めるという至福の極み…。
三島由紀夫 先生が説く、真のエロス
※以下は、「真のエロス」に関する三島先生のご意見を、私なりに要約したもの。
もし、現代に神(超絶的なもの)がいないなら、無理にでも復活させなければならない。
そうしないと真のエロスも復活しない。
無理にでも絶対者(神)を復活させる事で、真のエロスは復活する。
つまり、戒律がない所に真のエロスは存在しない。
ですから、性に厳格なカトリックというのは、逆説的ですが最もエロティックな宗教なんです。
社会と愛が対立する時に、最もその愛は美しい。
逆に言うと愛というのは、白昼公然と公認されると純粋じゃなくなる。
そんなのは、世間の枠の中にハマった既成品の愛であり、スーパーマーケットで大量陳列されている商品と一緒です。