横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

三島由紀夫 文学 『英霊の聲』について

私は小学生の頃に、高倉健主演の『動乱』という映画を観て二・二六事件に最初の関心を持ち、高校時代にこの『英霊の聲』を読みました(その後、三島由紀夫 研究会に入会します)。

聲」は「声」の旧漢字です。
 
英霊の聲』について三島先生は、「二・二六事件で処刑された磯部浅一の霊が宿って書いた」と言っています。 
 
「象徴天皇」ではなく「生命尊重以上の価値としての現人神天皇」というのは、私も青春時代に取り組んだテーマです。 
「現人神天皇」の肯定は、裏返しで戦後の「象徴天皇性」の否定になってしまうという、シーソーゲームの様な逆説。
 
私が探求していたそのテーマを、まるごと受け止めてくれたのが『英霊の聲』です。
私も特に好きな作品で、『憂国』と並んで私の中では三島由紀夫文学の双璧であり、私の人格形成に大きく影響を与えました。
 
『英霊の声』は、昭和史の節目節目における昭和天皇の振る舞いを否定して、怒りをぶつける内容になっています。
 
三島先生は終生、実父の梓氏に、そしてその父性の投影である昭和天皇に、愛憎入り混じる感情を抱いていたと思います。
 
折に触れて昭和天皇を批判する発言をしていますが、本当に憎いのでもないのです。
天照大御神に反逆した素戔嗚尊の様な、屈折した愛情要求の様なものが、その根底に透かし見える。
 
その辺を吐露したとも言えるこの英霊の聲』は当時、「不敬だ」「いや、よく言ってくれた」と、意見が大きく別れたらしいです。
   
とにかく三島由紀夫英霊の聲』の中で、いや、その後もずっと、戦後の「象徴天皇制」と「天皇人間宣言」を否定しています。
 
しかし、「君、君たらずとも…」だと…。  
 
ただこれも見方によっては、「三島先生が頭の中で理想と考えている神としての天皇像」に「現実の天皇」が当てはまらないから勝手に逆切れしている、と言えなくもない。
 
事実、三島先生死後に市ヶ谷の事件を裁いた裁判官もその様な事を述べています。
 
いずれにせよ、そこには三島先生による親殺しと言うか、三島先生が幼児期に蜃気楼の様に眺めていた「理想の父親像」の影が揺らめいているのを、私は感じます。
 
本の内容としては、「三島由紀夫二・二六事件」が「三島由紀夫天皇」につながり、三島のテーマである「生命以上の価値」につながる形になっています。
 
つまり、「天皇人間宣言」によって戦後の日本人は、生命尊重以上の価値を失ったんだ…と。 
 
昭和の歴史において天皇は、二度だけ「神」であるべきであった。
一度目は二・二六事件の時。 
二度目は敗戦の時。  
 
しかし、キング・ジョージ五世をモデルとする英国的立憲君主を理想とする天皇は、二度とも「人間」としての判断を下された。
それによって我らの死の名誉は剥奪された、と。 
 
その「我ら」というのが、処刑された二・二六事件の将校であり、特攻隊員達なんだ、と。 
 
その「我ら」は、神天皇の為に起ち、神天皇の為に死に、神天皇の為にさすがの戦いも一瞬で納めた。しかし、そのわずか半年後に、天皇人間宣言された。
「我ら」は裏切られた。霊界にありて、いまだに安らぎはあらず…と。   
 
「信じて尽くしたのに、裏切られたんだ…」というこの本の中の「我ら」の声が、信じて尽くした人に裏切られた私自身の青春と重なって、何度も読み返しました。
 
最後になりますが、二・二六事件の本質は、三島先生が喝破した以下の内容に尽きると思います。
 
二・二六事件の悲劇は、統帥大権の純粋性を信じた青年将校と、英国的立憲君主の教育を受けた文治的天皇との、甚だしい齟齬にあった」
 
これ以上に、二・二六事件の本質を語っている文章を読んだ事ないです。