横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

三島由紀夫 文学 『豊穣の海』について

三島由紀夫 先生の遺作となった『豊穣の海』4部作。

 

豊饒の海は、「輪廻天生はあるかも知れない、ないかもしれない」「あると言えばある、ないと言えばない」という小説です。
 
三島先生から見て、息苦しくなる様な近代合理主義に、真っ向から挑んだ内容となっています。
 
例えば、この長編の女主人公である綾倉聡子は、近代合理主義から完全に逸脱した女性です。
 
三島先生は、近代合理主義の向こうにあるものまで包括する「近代的な知性の持ち主」だったのだと思います。
 
とにかく、この『豊穣の海』4部作は三島先生が渾身の力を振り絞って書き上げた大作であり、その壮大なテーマは私ごときがここで述べられる様なものではないのですが、気付いた点だけいくつか。
 
第一巻『春の雪』は不敬?
主人公・松枝清顕は、勅許まで降りた皇族の許嫁を妊娠させてしまうわけですが、ある意味で、大人を困らせるピンポンダッシュ的なこれ自体が皇室の権威への茶化しであり、生まれ変わる松枝清明も、昭和天皇にいちもつ持っていた三島先生による「万世一系天皇」への隠れた挑戦ではないかと、私は思いました。
 
金閣寺』と第四巻『天人五衰』のコントラスト
金閣寺』の結末における、金閣寺放火後の主人公の「生きようと思った」というセリフはつまり、「抽象的観念に頼らず、現実社会で地に足を着けて自力でどこまで生きられるか。生きてみよう」と、三島先生は自分自身の仮託である主人公・溝口の口を通じて、自分自身を励ましている様に感じます。
 
しかし『豊穣の海』最終巻の『天人五衰』のラストでは、一貫して本作の狂言回しとなる本多繁邦に、自身の死期を悟らせている。
 
金閣寺』は「歪んだ愛情飢餓感や劣等感で育った青年のすさまじいもがきと、自立への模索」を描いている小説です。
だから『金閣寺』執筆直後の三島は「生きよう」としていた。
ところが遺作『豊饒の海』のラストでは、それが「無理だ」になりました。
 
また三島先生は本多繁邦に仮託して、築いた地位も名誉も人生の疲労に勝てなかった、と吐露しています。