横沢史穂のブログ

祖父が、ラバウルで負傷した陸軍の傷痍軍人でした。左右のイデオロギーに関係なく、戦争経験者の話を中心に編集したいと思っています。

海軍上層部の官僚的な腐敗は、日清日露にまでさかのぼる ①

海軍は明治以来、少数で勝つには「機先を制して不意をつく」を骨子としました。

 
日露戦争時の海軍大臣 山本権兵衛は、艦隊の奇襲による開戦を主張したので、権兵衛でさえ戦争の勝敗が艦隊決戦で決すると考えていたフシがある。
私はここで繰り返し述べていますが、海軍は動員が容易だからすぐに戦端を切れますが、陸軍は動員に時間がかかる。
その辺で陸海軍の認識が違うのだと思いますが、戦争の勝敗を決するのは艦隊決戦ではなく、陸上決戦において、です。
 
ナポレオンがイギリスに負けたのは、トラファルガーの海戦ではなく、ワーテルローの戦いに敗れたからです。
 
日露開戦3ヶ月後の1904年(明治37年)5月。
日本軍は東清鉄道 南満支線を爆破したので、既に旅順を孤立化させていました。
だから、陸軍に多大な出血を強してまで、急いで旅順を陥落させる必要は全くなかったのです。
封じ込めておくだけで良かったかも知れない。
 
しかし、「バルチック艦隊が旅順艦隊と合流されたら困る」と焦る海軍が急遽、陸軍に対して旅順占領を強く要請しました。
ですが、陸軍の指摘通り、バルチック来寇の時期に関する海軍の予測は完全に外れており、半年ほどズレていました。
 
そもそも、旅順は海軍の担当範囲であるので、旅順に関する情報も海軍が集めていました。
 
そして開戦時には旅順要塞は半分くらいしか完成していなかったので、海軍が「縄張り意識」を捨ててもっと早く陸軍に攻撃要請をしていれば、同じ攻略するにしても、陸軍将兵のあそこまでの莫大な死傷者を出さずに済んだ事でしょう。
…とに角こちらとしては、湾内に引きこもって出て来ない旅順艦隊を、湾内から引き出さないとダメ。
 
乃木はそれを、第一回旅順総攻撃が行われた1904年(明治37年)8月までにやりました。
乃木軍ならびに乃木軍と共に行動していた海軍の夜戦重砲隊が旅順要塞を砲撃し、それによって湾内から出てきた旅順艦隊と日本の連合艦隊が戦い(黄海海戦)、この結果として旅順艦隊は壊滅しました。
 
山本権兵衛は乃木に感謝していました。
しかし、日本海海戦によりイギリスにつぐ世界第2位の海軍国となった後、山本権兵衛以下の海軍はアメリカを仮想敵国にしました。
海の向こうのアメリカに、太平洋を越えてまで日本を侵略する意図はありません。
これ以降、海軍が唱えたアメリカ脅威論は、予算獲得の為の方便に過ぎませんでした。