高校受験の勉強をしながら「ゆくゆくは大学にも進学したい」と漠然とながら考えていた私は「戦争に行く前は普通の学生だった」という方達に、現代社会との接点を感じていたのです。
実際、学徒出陣によって軍隊に行かれた方達というのは、お話させていただくと「どこかに学校のキャンパスの雰囲気を漂わせている方が多い」というのが、私の受けた印象です。
織茂領 先生
予備学生13期は、全部で5199名。
「波があるので、陸上よりも水上から飛び立つ方が難しい」
多くの方からお聞きした言葉ですが、織茂先生はここで水上機の訓練を受けられました。
そして昭和19年5月に実用機教程を卒業し、少尉となって教官配置を命じられます。
そこは愛知県の知多半島先端にある第二河和海軍航空隊で、隊内部の綱紀粛正をはかる「衛兵隊」に所属されました。
織茂先生のお話
2015年インタビュー
第二河和海軍航空隊で私は先任分隊士として、生徒の指導に当たりました。
それまではビンタやバッター制裁(バットでお尻を思いっ切り叩く事)が行われていました。
私も隊長に指示されて、71名の生徒を二列に並べて一人につき二発のビンタをしました。
だが「これは何の為にやるのか」と。
私は制裁禁止を司令に進言しました。
部隊では今までやってきたので、これが当たり前と思っている。
しかし「制裁」と「指導」は違います。
力を付ける事が大事なのです。
殴るのではなく「走って来い」と、変えました。
これは戦後、私が学校に勤めてからも役に立ちました。
ある時、ある練習生が憧れの単独飛行に成功し、帰着した時の事。
整備兵が水上機の向きを変えた後、尾翼側から降りる事になっているのに、その練習生が嬉しさの余りか、プロペラが回っている前に出て、頭を撥ねられました…。
そして、駆けつけたお母様と弟さんに看取られて亡くなりました。
二人兄弟の長男でしたが、弟さんが「お兄ちゃんの仇を討つ」と言っていたのが忘れられません。
※②に続く